当方は白杉さんと会う前に二つの改修物件を経験していた。そのときに感じていたことなのだが、施主の奥深い思いの中には二つの相反した要求が含まれている。それは家作りに対して無知な身だからこその専門家への依存心と、同時にその専門家に対する猜疑心やライバル心である。特に後者が悪いかたちで表面化すると、それはマスプロダクトに対する製造者責任と消費者の持つ権利を横滑りさせたような争いになってしまう。しかし一品生産なおかつ既製品のアッセンブリーでは絶対成立しないのがこういう改修物件なのだ。だから、消費者−製造者の関係になったら改修はうまくできないと当方は信じている。それとは違う関係を築かなければならないのだ。また施主がそのような状態に置かれてしまったのには、実は学会や行政を含めた建設産業システムが彼らを家作りのプロセスから事実上シャットアウトしているからなのである。「住民参加」などという言葉にそれは端的に現れている。なんと傲慢な言葉であろう。
依存心とライバル心、両者をきちんと整理することはとても難しい。当方自身もそんなことに悩んだときにある方法を思いついた。築道という考えである。端的に言うとすまい作りの家元制度である。
詳細はその専用のホームページ(註http://www.nakatani-seminar.org/chikudo/index.html、中谷ゼミナール北浦千尋と共同製作)をみていただくとして、その要点だけいえばこういうことである。
近代的契約関係下での施主は注文し、基本的な意見を言うだけである(建築家に頼む場合も基本的には同様)。あるいはすべてを自分でやろうとすると、本当にすべてをやらざるを得ず、苛酷な経験が待ち受けている。しかし、家づくりの過程を解剖すると、施主ができる範囲で自ら入り込む余地がある。それが部分的な介入で終わるにせよ、その妥当な介入によって私的にも公的にも納得のいく家づくりができる。
現在のすまい作りにおけるいわゆる高度化とは、専門家を食わせるために専門家が考えたものである。しかしすまいのプランを考えることは幼児でも落書きしているような根源的なものである。なぜ書道塾と同じように子供の頃からすまい塾がないのか。すまい作りの基本は誰にでも通用すべき常識の積み重ねから成り立っている。自分で考えられる人は、専門家の存在の大切さもよくわかる。そういう時にこそはじめて専門業者に協力を依頼すればいい。できることを充分にやり、できないことはきちんと頼む。そういうネットワークを構築すればよいのではないか。それは一見前近代的な家元制度をとるだろう。現在のすまい作りの方法に多いかぶさるかたちでそんな扶助的なネットワークがあってもよいではないか。
また築道は、施主自身がみずから建てる家、つまりセルフビルドを奨励しない。人に頼んで、やりたいことを伝えられて、きちっと実現してもらう。その結果として、単なる自分の思いつきだけの家ではなく、社会的にも優れた家ができる。こんなことを考えてみたのである。