ウィーンのゲマンデバウテンはどんな批判も受け入れない

[1]アドルフ・ロースインタビュー パリにて1930年

 

 長い不在の後、オーストリアの有名な建築家アドルフ・ロースが、大きなサークルを作り上げたパリ[2]に戻ってきた。彼は建築芸術家と呼ばれることに耐えがたい思いをしている。なぜならロースは、建築家は住み心地がよく快適な家を求めるひとびとの欲求に奉仕する職人であるべきだと考えているからである。二年前、建築上の問題を解決するためにチェコスロバキアに呼ばれていったが、そこで重い病を得て、かの地で予想以上に足止めを食うことになった。今回やっと戻ることができ、健康を回復し、新しい印象と着想と計画に満たされて、建築家という職業、仕事仲間たち、今後のプロジェクトに関して才気に満ちた、いつもの彼流のやり方で話してくれた。

 

 いわゆる「現代」建築家のためを思って申し上げると、昨今、ほかの町でも同じなのですが、パリにおいて見られる現象が残念でなりません。それはオペラ広場に昔からある建物は、最近建てられた建物よりも、よほど「現代的」だということです。マルゼルブ通りにある銀行の新しい建物だけは例外です。建築家は芸術家ではなく、職人であるべきだということを理解している建築家はごくわずかしかいません。そう考えると、テーラーや靴職人のほうが建築家よりもずっと「現代的」であるといえます。「現代的」とは目立たないことであり、目的合致の原則に従っていることであり、まともということなんです。建てたばかりの頃、僕の建物は仮装舞踏会に燕尾服に身を包んで現れた紳士のように、一時目を引いたものです。しかし時間が経つにつれ、ひとびとは僕が提示した現代的な建築様式に、燕尾服姿の紳士を見慣れていくように慣れていったのです。建築は芸術家ではなく職人であるべきで、たとえばコックのように、人間的な欲求に応えることに自分たちが果たす務めがあるということを建築家は理解しなければならなくなったのです。その一方で、芸術家には「無駄な」作品を通して語る権利があるようです。どういうことか分かりますか。例えば次のようなことです。

 とても特徴的だと思われるささやかな二つのシーンを紹介しましょう。あるとき僕が非常に有名な仕事仲間に、彼が手がけたインテリアを見たと報告したところ、彼はこう言ったのです[3]

「友よ、あれはもう時代遅れになってしまった!何しろ三年も前の仕事ですからね!」

「その返事から僕らの間にある違いが何かはっきりしてきました」と僕は応えて、こう続けました。「そのインテリアが最初からナンセンスであることを、僕なら三年前に申し上げられたでしょう。あなたは今になってようやく気づかれたんですね」。

 つまり、材料に対して畏敬の念を持つことは、まともな職人にとって必要不可欠なことです。家は、それが壊れる日まではずっと現代的でありつづけなければなりません。一時の流行にあわせるしか能がない者は、発注者をばかにしている詐欺師でしかないのです。

 もう一つのエピソードをご紹介しましょう。僕があるモードショップで、ネクタイを選んでいたときのことです。先ほどの人物とは違いますが、これまた名のある建築家がいっしょでした。僕は彼に、どのネクタイが一番時代遅れだと思うかと尋ねました。そして彼が示したネクタイを僕は買ったんです。なぜでしょう。モード(流行)に左右されないものだけを買おう、と心に決めていたからです。

 今日、ひとびとがモード(流行)を重要視するようになったのは、世界がプロレタリア化(無産化)した結果なのです。貴族階級は、モードを含めどんなことにも保守的です。彼らは、自分の体にあわせて仕立てたすばらしいジャケットが自邸の棚にたくさんかけられているからといって、モードの強制に従って放り出そうなんて気は起こしません。対照的に、これぞ自分のものだというジャケットは既製品ただ1着というひとは、それがもうだめになったら、簡単に新しいものに買い換えるわけです。

 最近、中欧で金属の家具が流行し始めました。これはフランス人にはたまらないものがあるはずです。「お人よしの王様ダゴベールle bon roi Dagobert」の歌の中に「古い鉄の安楽椅子」が出てきます。王様は、すでに流行を先取りした玉座を持っていたということですね。

 ここ数年、僕はオーストリアに背を向けています。これをウィーンのひとびとはよく思っていません。それに僕がゲマインデバウテン(公営住宅)について展開した批判にも怒っているようですが、そもそもその建物には給湯設備もなければ、セントラルヒーティングも浴室もなく、どうひいき目に見てもいいと思えるところがないんです。でもまあ、このあたりの批判は聞き流せるにしても、ウィーン人が一番頭に来ているのは、僕がウィーン料理よりもフランス料理の方がいいと言っていることでしょう。ウィーン料理の悪口だけは、絶対に許されないタブーというわけでしょう・・・。

(2035文字)

 

  1. 1924年の10月末にパリへ移住したロースは、トリスタン・ツァラ邸(1925)やクニーシェパリ店の改装(1927)などの作品を手がけていく。建築作品だけでなく、ロースが執筆した映画「人でなしの女」の評論は、ポスターとなって街に貼り出された(本書所収「人でなしの女」メルヘン)。またロースはモンパルナスのカフェ・ドゥ・ドーモの常連となり、画家のピエト・モンドリアン(Piet Mondrian, 1872-1944)などの芸術家たちと交流を持っていた。その後1928年9月にロースはウィーンに戻り、1930年に再びパリを訪れている。
  2. 論考「わが人生の断片より」(『にもかかわらず』みすず書房、2015所収)に類似するエピソードが掲載。1903年に書かれた文章で、「ある高名な空間芸術家X氏」と彼の手がけた「Y博士のご住居」について語った内容。
  3. ゲマンデバウテンは労働者層の生活水準向上を重点課題とした第一共和国(1918-34年)の社会民主党政権によって建設された大規模な集合住宅。低家賃で良好な生活を提供することを目的とし、多くの公営住宅にはプールや商店、幼稚園などの施設が付属された。このプロジェクトにはヨーゼフ・ホフマン(Josef Franz Maria Hoffmann,1870-1956)やオットー・ワーグナー(Otto Wagner,1841-1918)の多くの弟子たちが参加し、1923-34年の間に348の住宅ブロックと42のテラスハウスが建設された。代表的な集合住宅に、広大な敷地を持つウィーン19区カール・マルクス・ホーフが挙げられる。事業は時代と共に内容を変えながら今日まで続けられている。