アドルフ・ロース、ウィーン工房について語る
”ノイエ・フライエ・プレッセ” 1927年4月21日
昨夜大勢の聴衆が駆けつける中、楽友協会の大ホール[1]で「ウィーンの癌(ウィーン工房)を取り除く!」と題されたアドルフ・ロースによる講演会が開催された。講演時間はほぼ二時間。ロースのドラマチックな語り口はよく知られているが、それは今回も遺憾なく発揮された。ウィーン工房が代表する新しいムーブメントをことごとく否定して見せたのである。この夜は平穏無事に終わらないだろうという予感はあった。とはいえ、昨日ホールの中を荒れ狂った賞賛と非難の嵐は予想以上のものがあった。何が行われているのか知らないまま、ホールの外で中の様子に聞き耳を立てていた者が、きっと白熱した政治集会でもやっているのだろうと考えたとしても、なんら不思議はない。
最初の数分間、会場にはずっと万歳の叫び声が続き、その後アドルフ・ロースが演壇に登場した。彼はこう切り出した。
「今まで私が公表してきた「〈芸術と工芸〉の間になんら本質的な因果関係はない」というテーゼは、最も重要な言葉として後世に伝わっていくだろうと思っています。人類太古の時代は両者が結びついていましたが、数千数百年の長い年月の中で徐々に切り離されていき、ついに18世紀にゲーテが登場して「芸術作品は触れられるものであってはならない。実用に供して消費物にしてはならない」と明言するに至りました。しかし昨今、フン族のようにヨーロッパ文化に入り込んで席巻しているウィーン工房のメンバーたちは、ゲーテのテーゼを打ち砕こうと、こう主張しています。
「黒人やポリネシア人だけでなく、石器時代からルネサンス時代にいたるまで芸術家は実用向けの芸術作品を作っていたのだ。これは現代の人間が失ってしまった長所のひとつである」。
工芸的日用品などいらない、われわれの日用品を再び芸術作品にしなければならない!というわけです。つまり彼らは長年に及ぶ人類の発展を無きものにしようとしているのです。
27年前のことになりますが、金持ちだったばかりに、哀れな境遇に陥った男の話[2]を書いたことがあります。その男は俗な人間で、芸術的なことをしてみたいと考えて、ある芸術家に自分の家のインテリアをまかせました。そこで私は、男が自分の部屋にいる間どれだけ「幸せ」を感じているのかを細かく描写してみたのです。絨毯の上を歩けば芸術の上を歩いていることになるし、ドアノブを握れば芸術を握ることになる。ソファの上に寝転がれば芸術の上に寝転がっているという具合です。芸術と工芸をごっちゃにしている滑稽さを書いたわけですが、私の真意は誰にも理解されませんでした。1898年にノイエ・フライエ・プレッセ紙で僕が「インディアン的見地」と名付けたような、馬鹿げた考え方が芸術生活と経済生活における国民の主要な特色になっている町なんて、ウィーン以外どこを探しても見あたりません。しかし「商売人用芸術」という恥ずべき言葉がウィーンで生まれたのは確かなことであり、周知の通りそれはドイツにも広まっていったのです。
自国の工芸技術の成果を示すべく、先のパリ万博には世界中からあらゆる国の人々が招待されましたが、オーストリアでは「出展するすべての作品を芸術作品にしよう」というスローガンが唱えられました。そしてシンプルでよくできた工芸製品は即座に却下されたのです。パリでわが国のパビリオンを見たひとは、いったいどこに伝統的なウィーンらしさがあるのだろうか、と首をかしげました。もちろんウィーン的な革製品、ブロンズ製品、その他の工芸製品の何たるかをわれわれは熟知している。しかしパリ万博では、そういうものは一切排除されたのです。この万博が空きっ腹をかかえたオーストリアのひとびとに新しい仕事と市場を与えることにはならなかった。それどころかよき伝統の街ウィーンの評判を取り返しのつかないほど落としてしまったのです。」
講演は中断を余儀なくされた。会場のいたるところから不協和音が鳴らされ、その音はどんどん大きくなった。手をたたく音、野次、お世辞じみた感嘆詞、「そんなの嘘だ!」「何様だ!」といった罵声、あるいはそれに似た言葉が入り乱れた。静粛を求める声が上がったが、何の役にも立たなかった。あらゆる物音が後部座席から舞台に向かって勢いよく押し寄せてきた。数分の間、講演をいったんストップせざるをえなかった。
混乱がある程度収まってようやくロースは「建築家による職人世界への侵犯」について語った。このような侵犯は破壊的な結果を招くことになると言う。彼によれば、製品は物として保っている限り、それは美的に優れたもの、つまり現代的なものでなければならない。したがって一晩限り踊ることができれば十分とされる女性の舞踏会用ドレスは、明くる日にはモダンであることをやめてもかまわない。だが仕事部屋のデスクは、数百年を経てもモダンであり続けなければならないのである。
このあとロースは、ドイツ文化をひとびとに広くしらしめるためにドイツ政府が1917年、スイスのベルンで開催したプロパガンダ展示会について言及した。
「私は当時たまたまベルンにいたので、この町のオーストリア公使館の要請を受け、ドイツ政府主宰のプロパガンダ展示会がひとびとにどう受け止められているのか、専門家として観察し、ウィーンの外務省に報告をすることになったのです。しかし私の報告がウィーンに届くことはありませんでした。それも当然かもしれません。なにしろこんな内容だったからです。
「展示会場となった建物の天辺には、恐るべき苦痛を人類にもたらす、こんな言葉が書かれていてもおかしくはなかっただろう。〈世界はドイツの存在によって、病から快復すべきだ!しかり。しかし、世界がそれを望んでいないとは何たることだ!〉この展示会は数千年前への後退を示唆していた」。
オーストリア人が同じような後退ぶりを見せたのは、ベルンではなくパリ万博のオーストリア・パビリオンでのことでした。」
ここでロースは、パリ万博のカタログに掲載されているオーストリア・パビリオンの展示品の写真を80点ほど紹介した。数千点の展示品の中で一番優れた芸術作品だった。それぞれの写真につけたロースの歯に衣着せぬコメントが聴衆の賞賛とブーイングの両方を呼び起こしたのは当然だった。
講演の後半は、主にウィーン工房に当てられた。ロースの主張によれば、ウィーン工房のメンバーたちは国とウィーン市から援助を受けているにもかかわらず、採算がとれるまでに至っていないという。西洋文化を侵害するものとして全世界がウィーン工房を拒絶しており、事実彼らの経済事情がそれを反映しているとし、最後にこう結論づけた。
「オーストリアの皆様には、ウィーン工房の流行が自分たちのものだなんて間違っても思わないでいただきたいのです。現代精神とは社会的な精神であり、現代的な製品は上流階級のみならず、あらゆる階級のひとびとに役立つものです。フォルムという観点から言えば、あらゆる日用品はみな均一であるべきで、均一であることによって自らが現代的であることを宣言しているのです。そこから逸脱したものを作るならば、それは間違ったものであり、社会的ではなく、つまるところ現代的ではないということになる。間違ったものによって社会でモダンな人間という地位を得ようとしているウィーン工房は、紳士を装い、自分たちの業績まで偽る詐欺師の集まりにすぎません。」
ロースの言葉が響きわたると、拍手と野次と笛が数分の間鳴り止まなかった。それが聴衆からのロースへの返答だった。
( 3100文字)
- ウィーン市インネレシュタット区にあるウィーン楽友協会の音楽ホール。テオフィール・ハンゼン(Theophil von Hansen, 1813-1891)が設計し、1870年1月6日に落成を記念する最初のコンサートが催され、豪華なつくりで当時の人々に強い印象を与えた。また、音響の素晴らしさから「黄金のホール」と呼ばれている。
- 「金持ちゆえに、不幸になった男の話(Von Einem Armen, Reichen Manne)」は、1900年4月26日に「ノイエ・ヴィーナー・タークブラット」に掲載された論考。『虚空へ向けて』所収。
- 第一次世界大戦中、中立国スイスにおいてドイツ・フランスを中心とする連合国・同盟国の両者によって激しいプロパガンダ活動が行われていた。スイスは両陣営の言語を公用語としていたほか、地理的に中央に位置していた。このため、両陣営によってスイスを舞台としてニュース記事、ポスター、チラシ、映画などあらゆるメディアを利用して世論を誘導する試みがなされた。
- ドイツの詩人エマニュエル・ガイベル(Emanuel geibel, 1815-1884)の詩「ドイツの使命(Deutschlands Beruf, 1861)」に、「そしてドイツという存在によってもう一度世界は健康を取り戻すだろう(und es mag am deutschen Wesen Einmal noch die Welt genesen.)」という一 節があり、ロースはこれを引用していると思われる。この一節はドイツの優位性を喧伝したいナチス等の勢力にスローガンとして使われた。