鉄道がひとびとを引き離す
1925年
ドイツではどうやら(そして残念なことに)建築家アドルフ・ロースはあまり知られていないようだ。オーストリアでは「ミヒャエル広場の建物」と、このウィーンで唯一のモダンな商業施設の建設で持ち上がった非難の嵐によって、彼は一躍時の人となった。問題にしたウィーンの良識派は、この建物がホーフブルク宮殿に面していながらルネサンス様式風のスタッコ(まったくキッチュである)が使われていないことに耐え難いものを感じたのである。ロース個人はウィーンの突出した才能の一人であり、魅力的で機知に富んだ一連の講演によって日常生活における非常に何気ない所作(歩く、立つ、座る、横になる、寝る、食べる、飲むなど)に保守革命的な生活規範を応用してみせたことはよく知られている。ここ数年彼は鳴りをひそめている。このくめども尽きぬ聡明な頭脳による、非常に特徴的な言説のいくつかをここで紹介してみたい。
パリ 11月初旬
カフェ・ドゥ・ドームでは、「亡命」オーストリア人の常連たちの集まりがすっかり定着した。フランス人は限定つきで参加が許されている。現在パリに定住しているアドルフ・ロースもそこに顔を出す。彼はしょっちゅう来るのだが、その度にぺーター・アルテンベルクの話になる。新しいエピソードと古いエピソードをまぜて話すのだが、公衆向けには適さない内容かオチのない内容で、ロースにしか語れないものばかりだ。会話には別のネタも混じっており、それが熱い議論に発展することもある。そういう場面になると、ロースはたとえ口先だけであっても、なだめるような意見を吐く。
「熱い議論だって?誰がそう興奮しているというのだ?」と誰かが絡んでくると、
「僕たちじゃありませんか。だけど、まあそれはまた別の話だからこれくらいにして・・」とロースはこんな感じで応じるのである。
つい先頃も、ペーター・アルテンベルクの話を少しばかりした後で、あるテーマで盛りあがることになった。それは文学者たちが機械を礼賛していることについてだった。この議論に終止符を打ったのはアドルフ・ロースだった。
「例えば鉄道がひとびとをどんどん近づけていると言われていますが、それは目の錯覚にすぎませんよ。鉄道はひとびとを引き離していますよ。それどころか疎遠にまでしてしまっている。矛盾しているんじゃないかって?いいでしょう。ちょっと例を出しましょう。想像してみてください。今、ウィーンの男性合唱団か、あるいはウィーンの役所関係者がパリへ団体旅行に行くとしましょう。オリエント・エキスプレスに乗れば30時間足らずでパリに到着します。到着したら何をするか。もちろんご飯を食べに行きますよね。すると彼らは出てきた肉が小さいことに文句を言い、メロンとサラダが前菜で、メインディッシュの後に温野菜を食べなきゃならないことに不満を漏らす。デザートはなしとくる。どのワインがいいのか、誰にも検討がつかない。何しろどのワインにも気取った名前がついているんですからね。二日目、パリの料理なんてもううんざりなので、オペラ劇場裏のオーストリアレストランに足を運ぶことになる。そこにいけばいつもの骨付き肉に、いつものビール、いつもの肉団子にありつける。すぐに運ばれてくるし、おいしいわけです。こうして14日の旅行が終わってパリを後にする。そうすると彼らは、パリの料理に関してはよく分からないままということになる。まるでパリに行ったことがなかったみたいにです。では以前の旅はどうだったでしょうか?駅馬車に乗って出発して、昼頃ようやくリンツに着く。ザルツブルクで夕食。その後、スイスを移動中に6回はご飯を食べ、フランス西部で12回は食べる。こうしてゆっくり慎重に移動しながらいろんな経験をしていくわけです。そして14日間かけてようやくパリに到着したころには、普段とは違うことはすでにすべて経験済みということになっている。特にこの旅を通じて故郷とは違う食事やマナーに慣れてしまいます。そんな旅から帰ってきたひとは、旅先で食べたおいしいものを二度と忘れないものです」。
ロースは、またこんな例も出した。
「僕の祖父母はモラヴィアのイグラウ(チェコ語でイフラヴァ)の出身です。祖父はその町で議員をやっていたんですが、家族の話によると牡蠣を食べるのが大好きだったというんです。彼と彼の仲間たちは大量の牡蠣を食い尽くしたらしい。そのせいで彼は豊かな暮らしからはほど遠かった。まったく困った話ですが、そんなに大量な牡蠣をどこから運んできたのか分かりますか?まだ鉄道なんてなかった時代です。航空便がある時代になったけど、いくらイグラウが大きな町になったといったって牡蠣なんてどこにもないし、殻が灰皿として使われているなんて光景もけっして見かけない。じゃあ祖父たちのこと、皆さんならどう説明します?僕が故郷ブルノで世話になっていた家具職人は、まだ鉄道がなかった時代にヨーロッパを半分歩いて回ったことがあるひとですが、彼はフランス語も英語もイタリア語も堪能で、あらゆる種類の牡蠣を知っているし、食べ方も心得ている。どの工房でも旅嚢を背負ってヨーロッパ中を遍歴している職人がいろんな国から集まって仕事をしていました。そして食べる、飲む、仕事するという場面になれば、職人が持ち込む料理を共有したわけです。工房はとてもインターナショナルだった。僕にいわせれば鉄道は確かに快適ですが、ひとびとを引き離してしまっているんですね」。
記録者P.M.
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