集合住宅(ジードルング)のルール
1920年 草稿
郊外に集合住宅(ジードルング)をつくる際には、耕作地を基点にしなければならない。まずは耕作地を設定し、次に住居を考えるのである。
本業のかたわら庭で農作物を育てる意欲のある者だけが、共有財産であるべき土地を使う権利がある。その意欲があって初めて、収穫を増やすために耕作地に住むことが許され、郊外での暮らしが必要となる。農作物を生産しない者は都会の賃貸住宅に住めばいい。
耕作地での喜びは、ひとえに農作物を育てることにあるべきで、庭園の美しさをめでたいのであれば、公の庭園に足を運べばいい。この二つの喜びは互いに対立しているもので、前者は収穫の喜び(自然の破壊)であり、後者はあるがままの自然を享受する喜び(自然の保護)である。
だれもが農作業に向いているという訳ではない。日常の仕事は建設的行為を担う人間と破壊的行為を担う人間に振り分けるが、どちらにせよ仕事には神経をすりへらすところがある。そして建設的行為に従事する者のための癒しとして、破壊的な要素を持つ農作業が必要なのである。両者のバランスが取れないと、身も心も健康に保つことは難しい。
土地は個人の所有にゆだねるべきではない。個人の所有になったとたん、本来の目的からそれてしまう可能性がある。つまり本来農作業をするための土地が、投機の対象になってしまうということだ。したがって土地はあくまで協同組合に属する共有財産とし、各居住区は協同組合を中心に形成する。
住宅建設の権利は協同組合が各個人に認めるものではなく、私的なコネができないよう、協同組合の外部の組織が統括し与えるものとする。数年にわたり耕作地をたゆまず使いこなしている者にのみ、住宅建設の許可が下りる。逆に耕作を放棄した者は、協同組合から除外される。
住宅建設には公的資金を投入するのではなく、農作物の販売によって作られた資金を当てる。土地を割り当てられた者は、そこに住宅を建てることで深刻化する住宅難を少しでも減らす義務を負う。こうした縛りがないと二種類のタイプの労働者が出る可能性がある。耕作を放棄して日々の労働賃金をすべて食費にまわさざるをえない者と、農作業で得た上がりの一部を個人用に貯蓄する者である。こうなると集合住宅(ジードルング)が持つべき公共の精神が失われてしまう。
継続的に行き届いた土地活用をすることによって、今後も愛情と喜びを持って土地を耕す意志があると判断された者には、国家が家作りの本体工事費を与えるのである。その資金で個人は建築資材を週ごとに買い付け、段階的に家を建てていく。私が考えているのは、釘打ちができればどんな技術も必要としない家作りシステムである(編者注:『ポチョムキン都市』収録の「一枚壁の家」参照)。個人が作った取得原価は、希望か強制かにかかわらず、居住者が出て行く際に損料を差し引いて返済される。
(1197文字)
- 収穫の楽しみについて、1926年の論考「現代の公団住宅について」(『にもかかわらず』所収)において、ロースは労働を破壊行為と建設的行為に分類している。それによれば、農業は大地を傷つける破壊行為で、高貴なおこないである。その一方で、煉瓦積みや裁縫といった仕事は退屈な建設的行為であり、非人間的でさえあるとされる。