分離派

”新8時新聞” 1918年4月23日

 

 現在分離派会館で、分離派とハーゲンブント[1]による共同展示会が開催中だ。最初の展示室の真ん中に飾られているのが、エッガー・リーンツ[2]の巨大な絵である。

 この作品の重量感には揺るぎないものがある。キャンバスには破壊しつくされた戦場を、突撃隊が身をかがめ、前に向かって突進していく様子が描かれている。兵士たちはみな同じ動きを見せる。画家の才気走った筆は一人ひとりの細部を漏らさず捉えている。すべてがこの絵を引き立てるのだ。緩んだゲートル。身をよじりながら後ろに向かってホルンを吹く男。まるで自分の後ろにいる戦友の耳に演奏がしっかり聞こえていないことを心配しているかのようだ。

 生起していることを幾重にも描き込んで過剰に盛り上げていく表現法はホドラー[3]の影響だろう。だが色使いはエッガー・リーンツそのものだ。全画面を茶色の濃淡だけで描く単色表現をよしとしている。事実この画家は、展示会のパンフレットの中で、「茶色で生み出された子供たち」について愛情を込めて語っている。色に関しては多色表現を取るホドラーとは正反対だ。絵は色使いがものを言う。単色表現を使えば、どんな画家でもたやすく大衆受けを狙えるのである。一般人は色を見ないし、見る気もない。彼らにとって世界全体は単色で刷られた絵はがきのようなものなのだろう。実際、茶色だけで印刷された絵はがきが良く売れる。彼らの芸術的な感性にはこれで十分なのだ。若い画家たちよ、売れたければハンス・ザックスの言葉を肝に銘じておくといい。「一度にたくさんの色を使うと後悔することになる!」

 202番、これはザイボルトの鉛筆画である。この絵では木舞とヤナギの柵、藁の屋根と樹木、地面の土と膝までありそうな泥濘が、鉛筆のタッチによってとことん単純化されている。あまりに分かりやすい説明的な描写に観る者は面食らうかもしれない。彼は芸術家ではないが、技量はずば抜けている。いうなれば名人芸である。同じ部屋に展示されている木彫りの寝そべった農民像はバルラハ[4]作品によく似ているが、バルヴィヒ[5]である。

 F.フォン・ラドラーは草木に神秘牲を持たせようとしているが、繊細な感覚を持つ者にしてみれば、花や植物そのものに神秘性が備わっているのは自明のことだ。

 ユングニッケル[6]も数枚展示されているが、いかにも彼らしい作品だ。その一枚は紺碧の空高くに吹きつける強い風の中で、ゆったりくつろぐ牧人の深い安らぎを描いている。ここにわれわれは絵画の真の表現力を見出すのだ。それは出来事と言うより、自然そのものの姿である。眠る牧人とくつろぐ羊たちは、兵士の突撃以上に見る者の心を打つ。この小さな絵画がエッガー・リーンツの大きな作品を凌駕しているのである。

 ひとつの展示室がすべてフランツ・ホーエンベルガー[7]に当てられている。これぞ芸術家という感じである。展示番号で言うと136番からである。だが展示会の告示の際に紹介されたスケッチは、メンツェル的な精神を感じさせたものの、実際に完成してみるとヴェルナーには及ばないものばかりだ。

 他にはO.ラスケ[8]の水彩画、クリスティアン・L・マルティン[9]のエッチング、神話をモチーフにしたメルケル[10]の二作品も見ることができる。この二点は、今回の展示会では最高の作品と言える。

 冒頭でふれたハーゲンブントにも触れておこう。自分たちの拠点を追い出された彼らは行き場を失い、分離派の招待を受け入れる以外に選択肢はなかった。ハーゲンブントを追い出したことは不当な行為であり、今はもう和解すべき時だろう。そもそもなぜハーゲンブントが古巣を出ざるを得なかったのか、まずは明らかにする必要がある。ハーゲンブントは、元来縁のなかった、ある小さな芸術家グループに自分たちの建物を自由に使わせていた。その中にはココシュカ[11]もいた。さる高名なる人物がこのグループの展示会を見て、その芸術の冒涜ぶりに気分を害したことがあった。

「私をご存じかな」と展示会場を出るとき、この人物は門番にたずねた。

「もちろん存じ上げております」と門番。

「それなら、私がこんな汚らわしいところに来たなんてこと、誰にも話さないでいただきたい」そう彼は言ったという。

 その人物も鬼籍に入り、その間にココシュカはポーランドでカンパを受けて大量の銀貨を得、サナトリウムに居場所を見つけた。サナトリウムはドイツにあるため、ココシュカの作品は現在ドイツのギャラリーに展示されている。彼の死後も、その作品は故郷ウィーンに戻ってくることはほとんどないだろう。ココシュカはオーストリアにとってもう過去の人なのである。

 ハーゲンブントの建物は、もろもろのいきさつの結果、いまは無人となっている。当事者は、もういい加減矛を収める時ではないか。

(1942文字)

 

  1. ハーゲンブントは1900年にウィーンで結成された芸術家の組織。名称は分離派誕生にあたって重要な役割を担った「ハーゲン協会」に因む。もともとキュンストラーハウスの下部組織としてあったもので、分離派発足の3年後の1900年に独立した。ハーゲンブントの装飾的表現は物語的、風刺的、ユーモア的なもので、観賞者である大衆に心地よく訴える芸術を目指した。主な芸術家は、ハイリンヒ・レフラー(Heinrich Lefler, 1863-1919)、オスカー・ラスケ(Osker Laske, 1874-1951)、エッガー・リーンツ(Albin Egger-Lienz, 1868-1926)など。また、建築家ヨーゼフ・ウルバン(Joseph Urban, 1872-1933)が改築したツェドリッツ通りの市場を拠点に展示会を開催し活動していた。しかし、ハーゲンブントの民謡的なユーモア、風刺画は、政府の文化政策を批判する団体に利用されたため、1912年、ウィーン市は前述の展示会場の賃貸契約更新を行わなかった。このため彼らは活動拠点を失い、分離派会館など様々な展示会場を転々とした。1920年に再びツェドリッツ通りの会場を利用できるようになり、1938年の解散まで使用した。本論考で述べられているハーゲンブントの古巣とは、ツェドリッツ通りの市場の展示会場を指すと考えられる。また、1930年にはロースの回顧展をウィーンで開催した。
  2. エッガー・リーンツ(Albin Egger-Lienz, 1868-1926)はオーストリアの画家。教会画家であった父に絵の手ほどきを受けた後、1884年から1893年までミュンヘン美術院で学ぶ。ホドラーに影響を受け、形態の輪郭を明確にし、アースカラーの単色で描く画風が特徴。ウィーン分離派に1909年から1910年まで参加した後、1911年から1912年までワイマールの造形芸術大学で教鞭をとった。第一次大戦に従軍画家として参加した後は、戦争を題材にした作品を多く残している。代表作は、「名もなき者たちに」(1914)など。
  3. フェルディナント・ホドラー(Ferdinand Hodler, 1853―1918)は19世紀末のスイスを代表する画家。類似する形態の反復によって絵画を構成する「平行の原理」を確立した。1903年にはウィーン分離派に参加。表現主義の先駆者とされる。代表作に「夜」(1890)、イエナ大学の壁画「イエナ大学生の行進」(1908)など。
  4. エルンスト・バルラハ(Ernst Barlach, 1870-1938)はドイツ表現主義の彫刻家、画家、劇作家。戦争による新しい芸術の到来を期待した戦争支持者であったが、第一次大戦に参加後、反戦主義者となる。ナチスによって退廃芸術とみなされ、多くの作品が没収、いくつかは破壊された。彫刻の代表作に「復讐者」(1914)、「マクデブルク戦没者記念碑」(1929)、戯曲の代表作に「死せる日」(1912)など。
  5. フランツ・バルヴィヒ(Franz Barwig, 1868-1931)ウィーンの彫刻家。ウィーン工芸学校で学んだ後、1890年から創作を開始。1904年からフィラッハの木工工芸大学(Fachschule für Holzverarbeitung)で教鞭をとり、1908年からウィーンのオーストリア博物館に務めた。その後1909年−1921年までウィーン工芸学校で彫刻の制作指導にあたった。1906年からハーゲンブントに参加し、1925年から分離派に参加した。
  6. ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユングニッケル(Ludwig Heinrich Jungnickel, 1881-1965)はドイツのヴンズィーデル市出身の画家。ミュンヘン工芸学校(Kunstgewerbeschule in München)卒業後、イタリアを経て、1898年ウィーンに移った。動物を描いた絵画や木版画で知られる。
  7. フランツ・ホーエンベルガー(Franz Hohenberger, 1867-1941)はウィーン造形芸術アカデミー出身の画家。1898年に分離派に入会し、1907年から1909年にかけては会長も務めた。1938年からキュンストラーハウスの会員。
  8. オスカー・ラスケ(Oska Laske, 1874-1951)はウクライナのチェルニウツィー出身の建築家、画家。1901年にワーグナーシューレを卒業し、1904年頃から画家としての活動をはじめた。都市や田舎の風景を描いた絵画やイラストを制作した。
  9. クリスティアン・ルートヴィヒ・マルティン(Christian Ludwig Martin, 1890-1967)はボヘミア出身のエッチング画家、イラストレーター。1909年にウィーン造形芸術アカデミーに入学し、その後パリとイタリアで学ぶ。1919年に分離派に入会し、1920年から1925年にかけては会長を務めた。
  10. ゲオルク・メルケル(Georg Merkel, 1881-1976)はウクライナのリヴィウ出身の画家。クラクフとパリで絵画を学ぶ。1917年から1939年までウィーンで活動し、ハーゲンブントの会員となった。第二次大戦後はフランスに活動の拠点を移したしたが、晩年ウィーンに戻った。1945年にはウィーン分離派の会員となっている。
  11. オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka, 1886-1980)はオーストリアのニーダーエステライヒ地方出身の画家。1909年までウィーン工芸学校で学び、ウィーン工房に参加。しかし1908年に展示会「クンストシャウ(Kunstschau Wien 1908)」でロースとの出会いをきっかけに、特定の芸術運動に参加せず独自の道を歩むようになる。ココシュカは文学の才能もあり、戯曲や詩も書いた。ロースとココシュカは生涯厚い交友関係をもち、ロースは1931年にココシュカを称える論考「オスカー・ココシュカ」を執筆している。代表作に「嵐の花嫁」(1913)、「アルマ・マーラーの肖像画」(1913)など。