オーストリア博物館の冬季展示会を巡る
”ノイエ・フライエ・プレッセ” 1898年12月11日
クリスマス休暇が近づくにつれて、家具に貼られた紙がどんどん増えていく。オーストリア博物館で開催中の冬季展示会の話である。会場には、イギリス家具の複製を始めとする工芸製品が商品として並んでいる。赤い紙は売約済み、白い紙は追加注文の印である。これらの紙をざっと見渡しただけで、誰もが奇妙なことに気づくだろう。書かれた名前は貴族が多数を占めているのである。この真相を考えてみたい。
まず購入者の身分と所属をすべて調べたところ、次のことが分かった。大公が3名、侯爵が6名、伯爵が12名、男爵が8名、一般貴族が23名、その他の58名は市民だった[1]。さらにウィーン市(市庁舎の食堂用に十字架のキリストの彫刻を購入)と工芸関係の2つの博物館となっていた。
一般市民が58名に対し、皇族を含む上級ならびに下級貴族が52名という注目すべき結果である。かつて購買力の高い客の内訳は市民階級がそのほとんどを占めていたことを考えると、この結果が不思議に思えてくる。ガラス製品に関しては今まで通りで、ティファニーグラスのような高級商品に飛びつくのは市民の富裕層が圧倒的に多く、貴族階級はごくわずかである。貴族階級が購入するのは、ほぼ例外なく家具か日用品である。
これはいったい何を物語っているのだろうか?
まずは全体の嗜好がはっきり二つに分かれた、ということである。つまり貴族の趣味と市民の趣味である。さらに、オーストリア博物館館長フォン・スカラが職人たちに商品の展示許可を出す際、特定の趣味を選択したことも見て取れる。それは貴族の趣味だった。これははたして良いことなのか、悪いことなのか?オーストリア工芸にとってプラスなのかマイナスなのか?博物館という国立の施設では、市民の趣味より貴族の趣味を優先させるべきなのか?もし嗜好が違うなら、どちらが正しく、どちらが上なのか?
この問いを考える前にまず押さえておきたいのは、ひとの嗜好は日々変わっていくということだ。決して普遍的なものではない。たとえば男性が女性の手を取ってテーブルに導く場面を思い浮かべて欲しい。その際、男性が女性に向かって「お嬢様、あなたに腕をさしのべてもよろしいでしょうか?」と声をかけることが、かつては洗練された振る舞いとされた。だがいまどき、こんなことをしたら無粋なだけだ。今ではこの台詞がゲーテの『ファウスト』から借用していることくらい、どの床屋の見習いも知っている。
もっとも床屋の見習いを十把一絡げに語るのも時代遅れだと思われるかもしれない。伯爵の子弟と同じように、床屋の見習いにだって洗練された者もいればそうでない者もいる。それにしても、伯爵の子弟に見られることを望む床屋の見習いは少なくないが、床屋の見習いに見られることを望む伯爵の子弟を見たことがない。
その理由を詳細に考察しても意味がない。注意すべき点は立憲国家オーストリアでは、憲法上すべての階級制度が廃止されたにもかかわらず、国民の中にはいまだ不文律のように身分の違いが存在するということである。実際、社会的に高い地位は依然として旧貴族階級に与えられている。そして国民誰もが、より高い地位を得ようと努力することは、人類のダーウィン的進化論の原則にかなっているといえるだろう。
趣味嗜好は変化する。しかも常に社会的地位の高い者の趣味嗜好に合うように変化していくのである。したがって次の点を押さえておくべきだろう。われわれは二つの趣味嗜好とつきあうのではなく、あらかじめ貴族に支持されていたものが、上を目指す市民に支持されていくということだ。そして市民が貴族に追いついた時点で、それまで貴族にとっていい趣味とされてきたものはその役割を終える。こうして下の階級から押し上げられながら、趣味嗜好は永久に変化していくのである。
この前提をふまえた上で、工芸に携わる博物館の責任者が今後どの方向に進むべきか考えてみよう。もっぱら貴族の趣味を選ぶべきだ、というのが私の考えである。確かに市民の多くは出品された商品の中から自分にふさわしいものを見つけるだろう。だが博物館にとって決定的なのは、消費者ではなく作り手の方である。作り手にとって展示会は、次世代の趣味嗜好の傾向を見極める最高のバロメーターなのである。その結果を踏まえて、新しい時代にふさわしい商品が生み出されていく。かくして展示品に貼り付けられた紙は未来を雄弁に物語るのである。聞く耳を持つ者は聞け!
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柱廊広間の2階のバルコニーには、新館長スカラが自分の主張を広めるために作った博物館の冊子が並べられている。この印刷物は「芸術と工芸」[2]という名前がついている。読者はページをめくりながら首を傾げるのではないか。上質の紙、美しい印刷、目に飛び込んでくる余白の白さ、何もかもが破格なのである。普通のパンフレットを見慣れた者は、疑問に思うだろう。国立の博物館がこれほど立派な印刷物を作る必要があるのだろうか?いくらなんでも気取りすぎではないか!と。
だがこれが必要なのである。
上質の紙、美しい印刷、多くの余白、こうした魅力によってパンフレットができるだけ多くのひとの目にさらされることが望ましい。たとえ大げさで気取りすぎだと失笑を買ったとしても、パンフレットが広まってひとびとの眼に焼き付けば、広告における余白の必要性やより良い活字の組み方、作るものに見合った紙の質といった問題を印刷工や植字工が考える上で、いい模範となるのである。いまや、ひとびとは与えられないと自分では何も考えようとしない! だからこそスカラは見事な印刷物を示す必要があった。これは教師の役割を担っているのである。
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二階に上がってすぐにあるのが屋根裏部屋をめぐる展示である。一般に扱いづらいとされるマンサード屋根をどう応用するかという問題に、一つの解答を示している。つまりこの屋根の利点を殺さずに、いかに屋根裏空間を上手に使うかを考える建築家や大工、別荘の持ち主たちにとって示唆に富む。ここでは狩猟用別荘の寝室を提案しているが、ゆったりとして懐かしい雰囲気があり、田舎の素朴さが感じられる。木材はグレーに着色され、その上に施された彫刻装飾もうるさくなく申し分ない。ただ一つ注文をつけるとすれば、組んだ木を補強する金具は必要なのだろうか。素朴なレンガの暖炉には画家グスタフ・クリムトの兄弟[3]が作った見事な銅加工の煙出しがついており、部屋全体に独特の雰囲気を与えている。中でも一番見応えがあるのは、ベッドと棚につかわれている象嵌細工である。
この細工は森を描写しているが、下絵を描いた画家ならこれは動物だと言いたいのかもしれない。いずれにせよ草をはむ鹿が彫刻されていることから、この部屋が狩猟好きのためのものだということが分かる。だがこの鹿は画家が下絵を描いたわけではない。画家が描くにしてはあまりに素朴すぎるだろう。これはそもそも下絵をもとに、いくつかの木材を組み合わせて生まれたものではない。家具職人はフルニエの豪華な大理石に触発されて、その逆の方法を取った。つまり木材を組み合わせてから、そこに鹿の彫刻を施していったのである。
家具職人はこう考えたに違いない。
フルニエの大理石は一本の木のように見えないだろうか?とくにほらここの部分!ここを彫リ上げ、ほの暗い床に置いたらどうだろう?考えていたことが形になり、象嵌細工が少しずつ出来上がっていく。だが隅にまだ余白がある。ここに小さな柏の木を入れてみたらどうだろう。柏の木は葉の連なりからできているから、数枚の葉を表現すれば木全体を表現することになるだろう。それを彫り込んで、よし、これで完成だ・・・。
出来上がった葉は滑稽なほど大きく不自然であるが、この職人はそう思わない。だが意匠デザイナーたちは、大いに笑うに違いない。
だがあえて意匠デザイナーに言おう。
小手先のテクニックで、簡単に遠近感を表現する君たちに笑う資格などない。なぜなら、ひとりの職人がこの柏の葉を表現するのに全身全霊を捧げているからだ。それぐらい、君たちにだって分かるはずだ。感じないか。荒々しいまでに感じないだろうか。君たち意匠デザイナーは線遠近法や空気遠近法といった小手先のテクニックをふりかざすくせに、あたかも実直で朴訥な職人のように振る舞うのはやめたまえ。それこそお笑い種だ。われわれは、君たちが持てる能力すべてを、魂のすべてを傾けて仕事をすることを望んでいるのだ!
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- 当時、オーストリア=ハンガリー二重帝国の貴族階級は大きく上級と下級の2つに分かれていた。上級は大公(Erzherzog)、公爵(Furst)、伯爵(Graf)の称号をもつもの、下級貴族は勲功によって新たに階級を与えられたもので、男爵(Freiherr)、士族(Ritter)、貴士(Edler)、また名前にフォン(von)が入るのみの貴族に分かれた。1918年に共和国となるに伴い爵位は正式に廃止され、公文書での称号の使用が禁じられたが、社交界では慣習にのっとり存続していた。
- 「芸術と工芸(Kunst und Kunsthandwerk)」はスカラのオーストリア博物館館長就任の翌年(1898)に創刊された、博物館の月刊美術誌。スカラ自身が編集に携わり、出版元はアルタリア出版。ウィーン工房など国内の最先端の作品を紹介するとともに、ティファニーなどアメリカやイギリスの情報を多く取り上げた。1921年に廃刊。
- 画家グスタフ・クリムトの弟、彫金師のエルンスト・クリムト(Ernst Klimt, 1864-1892)を指す。グスタフとエルンストは友人のフランツ・マッチ(Franz Matsch)と共同でデザインの請負を行い、のちに劇場や美術館など公共建築の装飾を手がけた。代表作に、ブルク劇場(ウィーン、1888)など。