われらの若き建築家たちに
”ヴェル・サクルム” 1898年7月
建築は芸術か?ひとはたいていそれを否定しようとする。芸術家たちの間でも一般人の間でも、建築家は芸術家の地位を与えられていない。名もない画家、相手にされていない彫刻家、隅に追いやられている俳優、まったく演奏されることのない作曲家、こうした人々こそ芸術家という地位をもっとも必要としており、世間も彼らを芸術家と呼ぶことに抵抗はない。だが建築家だとそうはいかない。彼らが芸術家に名を連ねるためには、まず誰もが認める大成功を収めなければならなかったのである。
建築家の地位を低くしてきた原因が二つある。一つは国家であり、もう一つは建築家自身である。国家は工科大学に試験制度を導入した。これによって受験者は、試験に合格すれば称号と同じように職業名「建築家」を名乗る権利があるとされたのである。この茶番は、建築学科を修了した技術者に対する称号として建築家という名前を法的に保証するよう政府に嘆願書が提出されるに至った。これをウィーンの知識層は一笑に付すどころか、真剣に受け止めて実行に移したあたり、建築は学習可能で、その能力は試験によって証明できるという考えが、世間に相当支持されていることがうかがえる。こうした流れを音楽にあてはめて考えてみよう。建築家の創造に通じるものがある作曲は、国立の音楽学校が主張するように、試験を受けて合格した者だけに許されるということになる。音楽は才能の発露であるべき純粋芸術である以上、試験に合格すれば本物になれるという考えがどれだけ馬鹿げたものであるか、ご理解いただけるだろう。
本物の芸術家たちにとって、称号を欲しがる技術者たちによって引き合いに出される「若いレンガ積み工が、試験に受かれば建築家を名乗ることができる」という言い草など、本来どうでもいいことだ。そうしたければ、すればいい。たかがクプレ[1]を作っただけの者が作曲家を名乗ったからといって、ベートーヴェンやワーグナーの名声が曇ることがあろうか?塗装工が画家を名乗ったからといって、レンバッハやメッツェルの名誉を傷つけることになるだろうか?そんなことはありえない。もしこの二人の巨匠が画家の称号ほしさから国の保護を求めでもしたら、どれだけ恥をさらすことになっただろう!第一そんなことにかまけていたら筆が進まないではないか。
だが試験の存在以上に建築家を苦しめてきたのは、建築家自身である。彼らは自らを貶め、世間もそうした態度に無関心だった。若い建築家の多くは自分で望んだ建築家という称号をやっと手に入れ、才能があるにもかかわらず、現実にはたんなる図面描きに甘んじている。薄給の事務員同然のために大手建設会社や大工や建築家の下で稼ぎ、自分のアトリエをなんとか維持している。労働時間は一般の労働者と同じである。自らの芸術的信念が雇い主の考えと合うかどうかなど、この「建築家たち」にとってどうでもいいのである。そもそも彼らには信念がない。今日の仕事場ではゴシックが、明日の事務所ではイタリアルネサンスが唯一自分に霊感を吹き込むものとなる。何を言われてもイエス。そして仲間内ではさんざん雇い主を馬鹿にし、ーいまどきの建築家がどれだけセールスマンになっていることかーひとしきり稼ぎ先の古い体質をこき下ろすと、何かをやり遂げた気分にひたる。そして次の日の朝八時になると、また自分を空っぽにして仕事に向かうのである。
建築家の卵たちが金の誘惑に負けず、自分の信念をはっきり言葉にする道徳的な勇気を持てば、われわれの芸術にすぐ恩寵は現われるだろう。絵画や彫刻、音楽の世界で奮闘する君たちの兄弟たちを見よ!彼らはいざとなれば芸術のために飢えることも恐れない。ひとびとが与えるもっともすばらしい名誉ある称号「芸術家」を求めるものは、これを実行できなければならないのである。
(1586文字)
[1] クプレは、機知に富んだ、多義的・皮肉的な内容をもつ小唄。特に、オペラやオペレッタで取り入れられているほか、風刺喜劇や道化芝居が上演されるカバレッタでも歌われる。