●増改築で飯は食えるか〜住まいを道に転化しよう
今回の長屋の改修を通じて、以上のような問題設定とその解法を考えてきた。そのより具体的な事例は図解集に挙げた。
しかしながら最後に残った大きな問題は、いったい今回の経験が、果たして建築における生産者の再生産に一役買うことができるのかということであった。増改築を成功させるには、おそらく新築以上の検討が必要になってくるであろう。そして改修費は同規模の新築より低くなるだろうから、設計料を建設費の割合に依存する設計者にとっては、全くもってうまい話ではない。また工務店にしても利潤が少なく、現場で予想もしなかった問題が生じることも充分ある。経験なくしてはリスクの大きい作業である。これについては二つの方向を提示してみたい。
ひとつは、まずこれまでどおり新築をつくりつづけることである。
しかしながら、その際には材や構造に冗長性(余裕、ゆるさ)を持たすことがとても重要である。初期に想定された機能が消滅しても、別種の与件に転用できるような投企性を内在させておくのである。経験的に見ても、戦後の一般木造住宅は近代的構法の湿潤によって全体的強度は上がっているかもしれない。しかしながら材は初期目的に対応して厳しく研ぎ澄まされており、その結果として転用性の少ないものになっている。新築は以降の増改築を許容する始点としても考えておきたい。
ふたつめは、住まいを、読み書きそろばんと同じような基本的修養の対象へと再び変容させることである。
建築という言葉はすべてのビルディングタイプを包括する厄介な概念だが、やはり住まいと大規模公共建築とは異なる。住まいは私たちの生活と直結し、むしろ住まいがあるからこそ私たちは生きることのイメージを獲得できる。間取りを考えることは子供でさえ面白いものである。民家を成立させていた社会的コミュニティである結(ゆい)をそのまま復活させることではない。大切なことは住まいと私たちとの関係性をより不断なものにしていく運動を模索せねばならないことである。
23件の長屋実測で、その長生きの秘訣は、不断の、小規模で小資本な改修にこそあった。専門家による大規模な建設行為のほかに、町場の工務店と住み手とによる日常的な改修の領域が確かに存在していた。
そのプロセスにおいては、これまでの業務としての建築家はいらなくなるかもしれない。しかしながら小規模な改修にさえ、住まいのあり方を考える過程、場所は必要である。各人の好き勝手があわさって社会が構成されることに、人間は倫理的な不安を感じる。それが本当によいことなのか、自分では決してわからないからである。そして改修に美的観点さえ宿ることもすでに充分おわかりいただいているだろう。私的な領域が拡大しただけのセルフビルドほど卑しいものはない。住まいについての経験豊富な「先生」は今後とも必要だろう。建築家、工務店、編集者、教育者、それぞれが日常のこれまでの業務を行いつつ、それとは別のネットワーク、理念をもつ共同体をつくるといい。私たちは月謝を払えばよいのである。
既存不適格な住まいの増改築が、現行法規では事実上ないがしろにされていることを考えるならば、そのあり方は自ら律することが大切になってくる。今私たちの研究室では、それらを「築道」と名づけ、実現への可能性を検討している。
昔、クリストファー・アレグザンダーは、伝統的な町が新しく計画された町に対して、何故調和しているのかという基本的問題について、それを無自覚なプロセスというキーワードで明瞭に説明した(註:参考:クリストファー・アレグザンダー『形の合成に関するノート』鹿島出版会1978年)。それは全体の調和を壊してしまうような力が、それぞれの主体にはなかったからである。どうやろうとも調和は崩れようもなかったのだと。しかし彼も言うように、その世界はとうに過ぎ去っている。この自覚された社会においては、無自覚に何かをすると、すぐに精妙なハーモニーは崩れ去る。じゅうぶんに自覚された無自覚なプロセスへの検討が、現在の住まい造りにおいては欠かせないのである。
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