住まいは誰のものか〜歴史工学研究の理論から見たその射程 *本論は新建築社『住宅特集』2001年6月と建築資料研究社『住宅建築』2001年11月に掲載された論をもとにしたものです。
中谷礼仁
はじめに
来阪して借家捜しを始めた頃に出会ったのが、市内一帯にひろがる長屋であった。大分建て替えも進んでいるが、それでもまだ充分残っていた。驚くべきことに、戦前の調査では、市内の約8割が長屋建の借家だったらしい。長屋建に関する近代的法整備も明治から始まっていた。大阪は長屋の都市だった。
それらは大事にされているとはいいがたい。京都にはいこじな「伝統」がある。大阪には大公共建築が跋扈するかりそめの「今」しかない。長屋はいずれのカテゴリーにも入れず、既存不適格の烙印をおされていた。それは都市・大阪における事実上の住まいの問題がないがしろにされているということでもあった。
実際、大正期の長屋に住んでみると、住まいのタイプとしていまだに魅力的なのであった。敷地面積は50から80平米ぐらいあり、東京のそれに比べて充分広い。一般に当時の木造は戦後よりむしろしっかりしている。平面計画にいっさいの無駄がないぶん、表にも裏にも庭がある。それゆえにウナギの寝床でありながら採光、通風の点でも申し分ない。仮にこの敷地形状のままに、すき間なく3階のプレファブに建て替えると、これらの良好な条件は、内外ともに失われてしまう。むしろ知恵のない新築の方が、状況を悪くする。
そんなある日、二軒はさんだ先の新築と思っていた住まいが、どうやら昔の長屋の躯体を利用して新しく仕立てられたものであることに気づいた。保存オタクがきらいな建築史研究者としての琴線がそこに触れた。
気になって周辺の住宅地を車で飛ばした。くすんだ風景がまるで違って見えた。更新されたファサードの裏側に、明治の、もしかするとそれ以前の躯体が潜んでいることを認めた。過去が現在的な事物としてごく普通に、存分に使われていた。
筆者は、これまでにいくつかの住まいの解体実測にかかわってきた。二年前に来阪してはじめて関わったのが、北区天満に存在していた今は亡き23件の長屋群であった。近代を経る中で道路拡張のために敷地を何回にもわたってけずり取られていた。その結果できあがったノアの箱船のようなかたちの敷地に、長屋群が移動、改修を繰り返して100年をこえて生きていた。(写真1:大阪北区菅原町の長屋全体配置図)
そこでの経験は、予想もしなかったほどそれまでに蓄えた知見の修正を強いた。それは一専門を越えて、はるかに普遍的な建て方の方向性を示しうる魅力を持っていた(註:参考:中谷「わが解体」住宅建築2000年2月号)。
そんな矢先に、建築家の趙海光氏から、大阪の長屋の改修案件を紹介された。これまでの調査は家屋が充分に転用可能であることが判明しつつ、解体撤去を前提として行われてきた。しかしながら今回はその経験を本来の方向に使うことができる。うれしかった。
ここではその長屋の調査当初から、改修設計、現場監理、竣工に至るプロセスの中でわき上がってきた素朴な疑問と、その私たちなりの答えについてまとめておきたいと思う。それらがおそらく在来技術を基本に据えた住宅づくりに関わる方々にとって、いくらかは共有されるはずの基本的な疑問と考えたからである。
●住まいは誰のものか〜増改築も新築も変わらない
ではまず、事物としての住まいはつきるところ誰に帰属しているのかを考えてみたい。たとえば私たちは一つの住まいを考えるとき、壁や床や柱や屋根や、好ましい住まいのイメージや雰囲気のことを考える。しかし自ら考えたからといって、それらは自分だけに帰属するものではむろん無い。考えれば考えるほど、それは気づかなかった自分以外のものに分解されていくだろう。つまりひとつの建設行為は、ちょうど蜜を吸った蜂が、しらずしらずのうちに花粉を運ぶかのように、ある特定の状況が予想した以外の情報を必ず伝えてしまうものなのだ。さらに住まいは、国家よりも古い事物である。最近の考古学的発見から歴史がさかのぼるように、むしろ住まいの痕跡から国家さえもが事後的に見いだされる。過去の事物に現在が寄り憑いているのだ。このような意味で、住まいは誰にも帰属しえない。そして私たちははなからこの連続性の中にいる。あるいは設計者であれば、なんのとっかかりもない抽象的な平面に建築を設計することの困難はすぐに気づくであろう。かたちの決定には、何らかの外的因子(コンテクスト)を必要とする。そうなってくると、やはりここでも新築と改修、あるいは増改築との差は紙一重だと言える。現前するもの(与件、コンテクスト)を自らひねくりだすか、すでにそこにあるかである。そして自ら考えつかなかった因子にめぐりあえるのはむしろ後者である。
私たちが長屋に、住まいのひとつの典型を見いだしたのは、それが未だに魅力的な空間を持った伝統的住まいの型であったという理由のみならず、以上のような住まいの構造が、現に物質的な抵抗として存在していたからである。(写真2: 解体された長屋の間。両側が潰れてしまうため桁だけが残されている) 長屋は各住戸がひとつの架構でつながっている。そしてその架構は、スケルトンとインフィルとに単純に画然できてしまうほどの強さを持たない。想像をたくましくすれば、住み手の使い勝手にあわせて偶然おかれた箪笥が、長屋全体の架構を強めることすらあるだろう。私的な物が同時に公的な役目を併せ持ち、公的なものが知らない間に私的に転用される。つまり不易なものはなく、両者は緊密に関係づけられているからである。
(写真3:全解体中の旧菅原町長屋群、住まいを構成する事物の緊密さが良く分かる。)
そして現前するもの、そこにあったものとは、過去の事物にほかならない。しかしながら「過去」は、通常「現在」とは分けられている。私たちは現在と過去という二元論を、非常に強固に持っている。つまり「過去」は「現在」の中に残った死んだものであると。ゆえに過去はいわば、かけがえのない「形見」として隔離され、あがめ奉られる。しかしながら長屋では過去は、そんなことにとんちゃくせず、やすやすと現在的にしか使われない。むしろ過去を大切に残すことが、それを現在から切り離してしまっているとしたら、それはしゃれにならない皮肉ではないだろうか。そして大きな問題は、従来の建築史における保存概念こそがその最たる事例であるということである。この分離はどのように乗り越えられるべきなのだろうか。
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