旧満州国の建築史学
ー1930年代伊東忠太周辺、旧満州国における古建築保存をめぐって-
中谷礼仁
はじめに
日本建築史の創始であり、エキゾチックな築地本願寺に代表される多量の「進化主義建築」を自ら設計した建築家であった伊東忠太博士(1867-1954)は、また同時に日本における東洋(アジア)建築史学 の祖でもあったことが知られている。しかし彼について考えてみようとするとき、わたし自身はこの方面での彼の追及を意識的に遠ざけてきたような気がする。それはアジア周辺の地域に対する知識の乏しさという単なる個人的な事柄によることがまず大きいのだが、それにしても漠然と、なぜ「ある地方」の「ある時代」について、それも「建築」にとりあえず限って研究するかという根本的な部分で、自分との接点を見いだせないでいることが大きいように思われる。
以前、アジアの「雑食」性、「重層」性を近代性の外部に見いだして、これからの時代のうらがえしのユートピアのようにとりあげた流行が、ちょうど近代建築批判の行われた七〇年代ぐらいから始まったことは周知の事実だろう。これらの反近代としてのアジアイズムを始まりとはしながら、現在のアジア建築研究は、わたしの所属する研究室の同僚たちが行っている作業を見ても、格段に精緻化したことが分かる。
しかしなお抱かれる危惧は、現在のアジア研究のやはり基底に備わっているであろうこの〈西欧vsアジア〉という対立項の構造そのものは、明治以来の日本の近代化の道筋が不可避的に常にうみだすもので、大きくは近代性そのものにすぐ直結する限界を持っていることを、どれだけの人々が意識しているのだろうかという点である。おそらく七〇年代を中心とするアジアへイズムの流行は、何十年か後には、近代的なイデオロギーの一分派として回収される歴史的素材になり果てていることだろう。歴史的素材を扱う歴史学者は、不可避的に歴史を越えようとする。この宿命からしても、先の対立項の限界をわたしたちは積極的にのり超えなくてはならない。わたしたちが現在の中にいることが、すなわち現在を超えようとすることと同義であること、先の課題はそれと全く等しい。くり返しになるが、現在の日本におけるアジア建築学は、そのための道筋を着実に獲得しつつあるように見うけられる。この論考では、伊東忠太に代表される日本の建築史学者とアジアとの関係の変化を、伊東を研究する過程でノートに刻まれた無名の人々の具体的な軌跡を中心にして辿ってみたいと思っている。なぜなら彼らの歩いていた実際のフィールドにこそ、先のような前提をうらぎる発見が横たわっているように思うからだ。伊東にとってのアジア
さてでは伊東にとってアジアとは何だったのだろうか。すでに言われているように、伊東をはじめとする明治以降の建築史学者たちのアジアへのまなざしは、例えば伊東が「日本の宝」である法隆寺建築の源流を日本からギリシャへといたる東洋の道筋に求めることから始まった(「法隆寺建築論」初稿発表は1893年)ように、日本建築の世界的な正当性を導きだすためのひとつの、しかしとてつもなく大きな道具であった 。伊東の仮説が大きく、また意志的なのはこのような国家的な要求に裏打ちされていたからである。だから当時のアジア研究は中国、インド、中近東などの西洋へといたるシルクロードに限られていて 、東南アジア周辺については大東亜圏確立が至上の命題となる昭和期まではそれほど顧みられていなかった 。また同時に、このような経緯からもわかるように、日本におけるアジア建築研究は、国家の時代々々の植民地政策とも密接に連関していたことが裏づけられるだろう。
しかしこのような当時のアジア建築研究の特質は、研究者という存在以前の、彼らをおおう〈構造〉としてすでにあったわけだから、これをもって単純に当時のアジア建築学全体を批判すること自体は、さほど積極的なものではない。大切なのは彼ら研究者の体験の中で、このような前提を超えてゆこうとするような何かが発見されたのかを問うことが、現在的な批評の意義になるだろう。このような意味で伊東はアジアというフィールドのなかで、彼の性急な大仮説をうらぎるような実際に遭遇しえたのだろうか。
おそらくイエスである。彼のアジア学の特徴は大きくいってしまえば、観念的な大仮説とそれを常にはみだしてしまう現実との、分裂的にとりむすばれた奇妙な関係にあったと思われるからだ。
世界旅行のフィールドノートから
伊東が1903年から1905年にかけての約三年間に、中国を皮切りにギリシャ、ヨーロッパへといたる大規模な世界実見旅行を敢行したことは、そのキャッチーな内容からしても最近の伊東忠太再評価の流行の中でよく取り上げられるトピックになっている。また彼はその途中で、彼の法隆寺の源流発見という一大目的とはややずれた現在のミャンマー、インド、スリランカ、トルコ、エジプト、シリアなどのその他の地域にも足を運んだことが知られている。
この経験はやはり伊東にとって一大転機になったであろう。なぜなら旅行前までは、乏しい西欧文献を批判しながらも採り上げ、せまい机の上で日本と世界とを結ぶ一大仮説を練り上げはしたものの、結局のところ仮説は仮説にすぎなかったからである。幸いにもこの旅行は、彼に中国大同の雲岡窟発見という一大快挙をもたらし、そのうえその遺窟のそこかしこに、法隆寺にいたる細部装飾の中央アジアでの伝搬経路を確証しうる部分を見いださせた。これは伊東の観念上の大仮説がぴったりと現実と一致するという、学者にとってはほとんど奇跡のような経験だった。しかし伊東の「源流発見」の目的とはややずれたもう一つの側面、他地域への旅は彼に何をもたらしたのだろうか。
世界旅行の経験は、帰国後の伊東に以前とは別のテーマを与えたと思われる。そのひとつのあらわれは新しい各地の知見を加えたうえでの、さらなる大仮説の構築である。この流れは後に「建築進化論」(1909年)として発表されるようになる。彼の「進化論」は世界各地の固有な建築のスタイルが互いに交流、反発、征服しあいながら、最終的には土地々々の様式を遵守し、木造から石造へあるいはその次の段階へと「進化」してゆく、というものだ。論の完成度としては、様式生成の過程をその土地々々の風土的な過程に求めすぎてしまったために、そのプロセスが固定化されてしまっていて、決して高いものとはいえない 。しかしここで彼は見聞した世界各地のサンプル、彼発明の建築世界地図をひきあいに出しながら話を進めているように、この論には法隆寺とギリシャとをつなげようとした彼の以前の仮説をはみだしてしまう外部をいかに論理化するかというテーマが隠されていた。これをもって伊東の第二の大仮説構築の追求は開始されたが、しかし彼のこの〈理念〉方面でのサーベイは早い時点でストップする。なぜなら当時の時代そのものがこのような過去からの継承性を意識的に断絶させたうえで成立するモダニズムに移行しつつあったからである。すでに伊東の建築界に対する影響力もほとんど消えかけていた。
そして同様なテーマは、世界各国に散らばる、まるでマンデルブロー曲線の一房々々のような多様性を秘めた建築細部の蒐集となってもあらわれた。この追及は極端な皇国主義が台頭しはじめるなかで、彼が背負わなければならなかった「日本建築」主義者という表のレッテルの裏側で生きつづけていた部分である。
伊東は一生にわたって数多くのプライベートなフィールドノートを描き続けた 。現存するそれらのなかでも、とりわけ先の世界旅行に関するものは、質量ともに群を抜いている。ノートのページを開く。隙間なくつづられた世界旅行中の日記、彼想像の物の怪(もののけ)が入り込んだ極彩色のスケッチがあらわれる。しかしここからは彼の以前の大仮説に直結する気の利いたフレーズ、スケッチがすぐに見つ?ゥるわけではない。彼のプライベートな手記には逆に何か焦燥感のようなものがつきまとっているとさえ感じられるときがある。さしずめ忠太は空間恐怖症のように、空白のノートに土地々々で生きている彼の以前の仮説をはみだしてしまう細部たちを、半ば驚き半ば侮蔑しながらスケッチしているように思えるのだ。
少し前、伊東の描いたフィールドノートどおりにエジプト・カイロの街を、実地に歩いてみたことがある。この時にも彼のノートには、カイロのイスラム建築にあらわれる葉紋装飾を中心の解読材料にしながら、彼得意の様式の伝搬過程を推測している件りが散見されるのだが、この考察はもはや法隆寺にしばられてはいない。たとえば彼はマムルケン様式といわれるイスラム中世建築の華麗な装飾のありようにいたく興味を惹かれ、「炎天を犯して」スケッチ、撮影を行っている 。マムルケン様式自体は、それまでの法隆寺-ギリシアラインの流れにはさして必要のない対象だが、その複雑さ、ピクチャレスクなありようが、彼を捉えたのだった。おそらく彼の個人的な怪奇趣味、装飾趣味からすれば、ナショナリズムに規定されたおおまかな仮説を常にはみ出してしまう過剰な細部が、いったいどんなメカニズムを通して生まれるのであろうか突き詰めたかったに違いない。「進化論」が頓挫したなかで、このような想いの最大の成果は後に、彼が蒐集した中国の多彩な細部をまとめた全五巻の『支那建築装飾』(昭和16年)に結実する 。ここには彼のもはや時代がかってしまった大仮説が幅を利かせているわけではない。ただただ中国建築細部にまつわる豊富な写真、フィールドノートをトレースした色付きのスケッチとともに、丹念な報告が併載されているだけである。ジャーナリスティックな刺激性に乏しいため、現在これらの作業はあまり語られていないが、世界旅行の体験以降の伊東の重要な作業であったろう。
伊東にとってのアジアを考えてみるには、旅行前にすでに獲得されていた法隆寺のためのアジア建築史学ではない、旅行以降の彼の作業を視野に入れる必要があるだろう。日本のためにしつらえられた壮大なアジア地図、そのイデオロギーはしかし当然のように微細な部分で裏切られてしまう。絶え間ない疑問が彼自身からわき上がり、秘められたスケッチブックの中にそれを閉じこめる。旅行中いつも忠太が驚かされていたのは、日本を正当化させる目的に突き動かされた大仮説の外部にある、豊穰な差異だったのではないだろうか。満州国の建築史学-伊東祐信と高橋正
伊東祐信(すけのぶ)は1994年1月に他界した。彼は伊東忠太の次男にあたる人物で、伊東忠太のフィールドノートを大切に守り続けてくれていた人だ。多くの研究者たちが彼を訪ね、いくつかの画期的な研究がもたらされたこと は記しておく必要があるだろう。しかし晩年の祐信には同時に、もうひとつやり遂げるべき課題があった。彼は父忠太が提唱した 、当時旧満州国熱河省、現在中国河北省承徳にある「外八廟」と呼ばれる一大寺院コンプレックスと「避暑山荘」と呼ばれる離宮建築の保存のための調査に従事した経験を持っていた。不幸なことにこれらの資料は、敗戦の混乱の中でほとんど全てが消失してしまっていた。祐信はなるべくはやくこれらの経緯をまとめたい と思っていたのである。祐信の周辺を中心にして、1930年代「満州」における、外部の豊穣な現実と直面した研究者たちのありかたを探ってみることにしよう。
満州での日本人による建築活動の様子は、最近の研究によってしだいにその内容を明らかにされてきてはいるが、こと満州と日本の建築史学との関係、それも当時現地で継続して実際の調査を行った人々の詳細な研究は、いまだ未開拓であるといってよい 。祐信の所属した満州国文教部(日本の文部省にあたる機関)所属の「熱河重修工務所」は、昭和10年(1935)に発足、満州国において古建築の調査保存事業を目的とする唯一の機関であった。しかしその内容は貧弱で、発足から昭和18年(1943)の解散まで所員は祐信を含んでのべ10名にも満たなかった。それも両国の文化交流を目的とし昭和8年に発足した満日文化協会ならびに伊東忠太個人の保存の提唱によって何とか設けられ、虫の息で継続したようなもので、なんら恒久的な機関ではなかった。承徳の建築群は皇帝溥儀にとって彼の祖先による一大造営であったので、日本軍部がコントロールしていた旧満州政府は、外国との手前や日本の面子からその保存対策をうたいはしたが、政府の本質にとってはほとんど意義を持ち併せていないものだったのである。またそれらは、その多くが清朝の様式と喇嘛(ラマ)つまりチベット様式とが混淆されたもので、いまだ日本人による中国建築研究の一主眼であった日本建築を世界に通じさせるための証拠探しには、ほとんど寄与し得なかったこともその一因にあるだろう。しかし満州唯一の大規模建築群という、建築的にはかなり重要な位置を占める遺構でもあり、伊東の他、村田治郎、竹島卓一ら中国建築学者をはじめとして、当時の建築論壇で大きな位置を占めていた岸田日出刀、モダニストの藏田周忠らも承徳の工務所に足を運び、その様子をメディアに報告している。
一方、工務所に参加した祐信の経緯にはすこし考察を要するような部分がある。祐信が大陸に渡った経緯は、彼が以前に勤務していた家具屋が倒産したからだという。失職していたところに父忠太から調査参加の誘いがあったのだ。「満州」に対する格別の思い入れがあったわけでもなく、ふらっと承徳に赴いた祐信は、しかし現地に展開する古跡群に魅せられ調査にのめり込むことになる。所員たちは工務所発足とともに承徳に赴任し、祐信は父との関係で満州政府との予算面での交渉などの事務にも携わった。彼の遺稿にはその際の難航する交渉と、次第に工務所が軽んじられ、ついには閉鎖されるまでの経緯が、残る資料を用いて記されている。調査打切り後の膨大な調査資料は文化協会の地下倉庫に積み込まれ、敗戦時に水没したと言われている。伊東忠太にはじまる彼らの保存への企図は、実らなかったといってよい。しかしわたしたちが知りたいのは、現地で行われていた調査の実際である。
昭和15年(1940)の夏から合流した祐信の妻知恵子によれば熱河での実際は、表面上は平和なものであったという。彼女にとっては煩い国内を抜け出して逆にせいせいしていたらしい。実際祐信や妻知恵子たちの年代は、ちょうど大正デモクラシーの頃に教育をうけたせいか、いわゆる軍国少年少女とは異なる考えを持っていたからである。当初の彼らは寺廟に近在する農家を借りて事務所とし、まず18c初頭から建立がはじまった「外八廟」から作業をはじめた。散在する各寺の配置図から個々の平面図を作成しながら、傍ら破損状態のチェック、重要度のランクづけ、修理法などを検討した。その後事業の縮小によって昭和13年(1938)、工務所は名を「熱河古蹟特別調査所」とあらためて、拠点を離宮内の山荘の居殿に移転、修復を断念し調査と記録を主にするようになる。そのころ五十嵐牧太主任の下で実際の調査を行ったのは、それまでなんの古建築修復に対する経験のない若い所員と、足場組立専門の日本の工務店、および労働は現地で雇われた中国人たちだった。中国側からの修復専門家は参加していなかったのである。彼らは足場を組み立て、細部を撮影し、大きく寸法をとり、後で居殿を用いた事務所でこれらを合成して図面化するという作業を行った。
昭和13年4月に入所した高橋正は、当時まだ18歳の少年であった。米沢の工業高校の建築科を卒業したばかりで、同胞の五十嵐にさそわれて「これといった考えなく」満州に着いたという。この少年は、この後重要な図面化作業をほとんど一人で担うようになる。彼の写した当時の様子、青空にたちあがる古塔、屹立する寺院と平原、朽ち荒れ果てた離宮、多量の建築細部のサンプル、異形の僧侶の舞踊。彼の描いた図面にはこれらの体験が重なり合っている。細部にこめられた意味を自ら描きながら確かめてゆこうとしているような図面だ。彼を承徳にのめり込ませたものは何だったのだろうか。
ひとつには、と高橋はいう。主任の著作 の刊行に間に合わせるためという仕事の義務感。もうひとつは、遭遇した中国建築の細部意匠の複雑さに心を惹かれたからだという。彼は当時を回想して、唯々建築の「偉大さに感動」して、「この力がどこからでてくるのか」を知りたかったという。中国人とは直接の交渉を持たなかったが、手伝ってくれる人々とは「なか良くやった」という。「政府の政策」なんてぜんぜん考えてなかったのだ、ともいう。それらの発言には、当時の日本人体験者が持っていた認識の甘さや、ひとりよがりの構造が見え隠れもしている。しかし、大事なことは祐信、知恵子、高橋らの話から浮かび上がってくる、「日本人」にとってのどんなイデオロギーとも切れてしまったかのような、満州承徳という異質な空間(あきま)である。
高橋は昭和15年に本国の山形北部第18部隊に入隊し、昭和16年再び満州に赴き北支第36師団第224連隊歩兵砲隊に転属した。北支の予備士官学校を経て少尉となった昭和18年、彼は自主的に一冊の報告書を作成している。『沁河の遺蹟と藝術』と題されたその記録は、彼による多数の写真図版を掲載した、A4版、40ページ弱の調査記録で、山西省の黄河支流、沁河流域の遺蹟についてまとめたものだ 。この記録がなんといっても特別の意味を持っているのは、所属していた歩兵砲隊の作戦警備に日々彼が従事する傍らで、隊の意志とは関係なく彼独りによってまとめられた点にある。
この報告書は中国建築としての沁河の遺蹟について、伊東忠太ゆずりの進化論的概説から始まる。しかしここでの報告の主眼は、その流域における穴居住宅ならびに石窟について、配置平面から始まり、外観、?コ内装飾、構成に見られるいくつかの形式分析、その施工方法の優劣までをも詳細に解説した後半の部分である。この部分は現在でも検討に価する調査記録となっている。高橋は、隊の行軍中、彼方に気になる住宅や遺跡を発見すると、率いるグループを休憩させ、ひとり写真機、ノートをもってサーベイしにいったという。写真機は日本製の小型のもの、ノートがなければ紙の切れ端にメモした。建物の間取りをスケッチし、実測を行う。時間がないときは歩兵砲独特の目測のテクニックが大いに役立ったという。帰舎後、調査の成果を携えて、現地の古本屋で購入した県誌で歴史を参照、熱河の経験を活用して、記録作業を完成させた。戦争末期の軍隊での作業という制約を考えるとにわかには信じがたい話だが、その報告書をめくると霊廟前の石造の獅子像に対峙する得意げな高橋の軍服姿がおさめられている。
彼の撮影した行軍中の様子をとりかこむ中国の風景は、戦争という状況下をすぐに逸脱させてしまう、広漠な、時には荒涼とした空間である。そこには「日本人」の時間や空間はない。この異質さが、つまり高橋をサーベイにのめり込ませる要因であった。彼の穴居調査は、特にその施工方法、つまり建物が出来上がるプロセスについての考察に重点が置かれているが、彼はそのような研究の好みを承徳の空間で培ったという。彼は承徳の建築群のデティールにのめり込んでゆくうちに、それらが施工されるプロセスが土地の持つ特性に大きく左右されていることに興味を持っていたのである。しかしこれをもって彼が、いわばイデオロギーぬきの建築の「固有性」に触れていたとまとめてしまうことは適当ではないだろう。建築における「固有性」あるいは「地域性」というテーマは、それらがインターナショナルな近代性に対立する意味を暗に持たされていることが往々にしてある。だから彼の意識が「イデオロギー」を超えて直に土地と直結していたという書き方は軽率だし、そもそも「イデオロギーという観念」と「土地という現実」とを分けてしまう思考の型こそ、わたしたちが常に回避しなくてはならない観念性なのである。こう言ってみたらどうだろうか。実は土地こそが一番強力なイデオロギーだったのではないだろうか。ぽっかりと空いてしまった承徳という空間こそが、その強力なイデオロギーに直接的に触れる裂け目だったのではないだろうか。天工開物と文化大革命
祐信のいなくなった伊東家の住まいには、現在でも多くの中国人留学生たちが訪れる。それは妻知恵子がいまだに中国にこだわりつづけ、中国語の堪能な彼女のもとに彼らが日頃の相談に訪れているからである。ある日彼女は、所有する中国の文革期のラジオ放送を録音したテープについて話してくれたことがある。彼女が中国語をラジオで勉強し直していた時代は、まさに中国で文化大革命の波が荒れ狂っていた時期で、勉強のために録音したテープからは当時の様子がニュースとして生々しくドキュメントされていたらしいのである。直接の研究対象ではなかったのでさほどの関心を持たずに終わってしまったが、一方でわたしは、子供の頃に見たある雑誌の芝居じみたカラーページたちのことを思い出していた。
今考えてみれば、文革期における中国の農工政策とは、まさに土地に潜在する強力なイデオロギーを意識的に加速させ、構築化したプロセスなのではないかと思うことがある。子供のころ両親が知り合いの中国人からすすめられ購読していた『人民中国』という雑誌には、当時の様子が時代がかったカラー印刷のページの中につめこまれていた。たくましい筋肉を持った労働者たち、収穫の笑顔に満ちた少女たちの鮮やかな赤いスカーフ、人馬一体となった露天掘りの風景、自力更正で建ち上がる巨大コンビナート、最新鋭のしかし懐かしいデザインの大陸横断特急、そして原爆実験のまばゆい光。ここで展開される土地は、海外からの先進の技術思想を意識的に排除していたが、それはどんなイデオロギーとも切り離されたという意味での「現実」ではない。ここには荒ぶる土地の心臓を直接つかみ出してくるような暴力があったからだ。土地の固有性はこの時全中国を統括するような〈神〉になっていた。土地は、その極点においては狂気をもともなうイデオロギーにもなりうる。当時メディアによってもたらされた文革期の中国の現実は、わたしの周りにあった風景が色あせてしまうような、異質な光に満ちていたのである。
文化大革命の狂気は、まず何よりも批判されなければならない。しかしここで意識された〈土地〉のありかたは、一方でなお検討に値するエピソードを生みだしている。当時の中国を視察したある日本人技術者は、ある土地で見た様子を次のように語っている。
大■(「寒」の下が木)へ向かう朝、陽泉の町をはずれてすぐのところでふしぎなものを見た。崖のそばをバスが通った時、何人かの農民が腰を下して休憩していた。おやおやこんな朝早くからもう一服かといった感じで最初私は眼をとめたのだが、彼らの前に積みあげた石の山が三つほどあって、山の上から白い煙がでている。
「はて、あれは何だろう?」
と通りすぎてから、ひょっとすると石灰を焼いている場面ではないだろうかと思いついた。次に同じような場所を通った時たしかめてみたら、はたして石灰と石灰岩とを交互に層状に積みあげた石灰に火をつけて石灰を焼いているのであった。
その時頭にひらめくものがあった、と彼は書いている。日本へ帰って早速この光景の根拠を調べてみた彼は、これが17世紀はじめに明朝で刊行された技術百科全書『天工開物』に掲載された築堤の方法であったことを突き止める。そしてこれら古来からの技術が存在する向こう側で一台のブルドーザーが貯水池建設のために山を崩していた。先の石灰による築堤はその貯水池のためのものだったのである。そしてこの光景の注目すべき点はこれらの技術が、時代的な比較を拒むような形で不可分に組み合わさって働いている独自なシステムにあると彼はいう。もしかするとここでは、17世紀と20世紀とが同時に共存した、異なった歴史の時間、「近代化」の方法が生まれつつあるのではないかと、彼は自問するのである。
彼のような穏健な言説も日本ではたちまちのうちに「文革シンパ」となり、この路線のその後の破綻、現在のような中国の新しい経済政策によって、今では完全に鳴りを潜めてしまった 。わたしたちの世代も当然のように、彼らとは一定の距離をおいた位置にいると思っている。しかしわたしにとってこの技術者のような経験は、いながらにして今を超える作業が不可避であるような立場を意識したときに、つねに示唆的なものであることも事実なのだ。なぜならこの技術者の見た築堤の現場と同じように、伊東や高橋たちにこの〈土地〉が与えたさらなる追求への契機、それは「異質」でありながらなんなく共存し成立しうる世界があるという驚きにあったと思うからだ。
建築史学者と保存
過去の建築を対象とする保存調査という作業は、建築史学者にとって大切なプロフェッションのひとつである。ただ私たちはその作業に現在を見ようとはしない。はなから後ろ向きの仕事だと決めつけている風潮さえある。しかし私はこのようなサーベイ、特に解体をともなうような調査対象の最深部に直接ふれるような作業こそ、建築史学者にとっての究極の仕事なのではないかと思うときがけっこうある。なぜなら、その建築を成立させている計画技術、あるいは素材や施工方法などを調べたりするような実際のサーベイのプロセスのなかに、実は先の「ある技術者」の体験に類似した小さなしかし異質な発見が往々にしてあるからである。あの技術者が発見したものは、一方で何が「近代化」であり、何が「過去」のものなのかが簡単にはいいきれなくなるような、アクチュアルな歴史的問題をも実ははらんでいた。これらの異質さは建築的に完結しようとする設計図面からではなかなか捉えることができないものだ。天工開物とブルドーザー、わたしたちはその象徴的な関係に従来の歴史の枠組みを対象化してしまうような位置にある別の史的関係を見れはしないだろうか。保存における実際の作業がこのような位置を示唆するヒントを常にはらんでいるかぎり、それらは決して後ろ向きなものとはいえない。伊東たちが頓挫した承徳の保存から、わたしたちはいったいどのくらい先へと進んだのだろうか。彼らの触れた〈土地〉は、いまも変わらずわたしたちの前にあるのではないだろうか。後記;本稿作成にあたり、伊東知恵子、高橋正両氏にひとかたならぬご指導をいただきました。ここに記して謝意を表します。また用いた図版、写真は出典の明示なき場合は、すべて伊東知恵子氏の保管によるものです。
図版キャプション
図1;伊東忠太による建築世界地図、世界旅行の体験にあわせて彼の建築論のフィールドが拡大したことを象徴している。『建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途』1909年より(伊東忠太著作集6における版を使用、昭和57年原書房による復刻)。
図2;「進化論」における、世界各地の建築「進化」サンプル(前掲書より)。これらは部分的に伊東の世界旅行中のフィールドノートからの抜粋を含んでいる。
図3;伊東の細部装飾への凝視1。エジプトカイロのイスラム寺院についての描写、ドームのさまざまなバリエーションに注目している。フィールドノートから抜粋。
図4;伊東の細部装飾への凝視2。アラブ美術館で採集した葉紋模様のスケッチ。フィールドノートから抜粋。
写真1;熱河承徳にある須彌福壽廟(外八廟の一つ、1780年竣工)の様子。
写真2;承徳における伊東忠太。
写真3;熱河古蹟特別調査所員を含む承徳におけるスナップ。左から2番目伊東祐信、一人おいて妻知恵子、二人おいて伊東忠太、次が高橋正(撮影高橋正)。
図5;祐信による調査体制図(『熱河古墳 避暑山荘と外八廟調査と保存』1994年より掲載)
写真4;承徳遺構群の細部1(普陀宗乘之廟八方亭の棟飾)。
写真5;承徳遺構群の細部2(須彌福壽廟金賀堂の正吻)
図6;高橋調査による穴居住宅の平面、および詳細(「沁河の遺蹟と藝術」より)。
図7;明朝期の技術百科書『天工開物』に掲載された石灰の製造法(東洋文庫版)本稿では以降、伊東の言う「東洋」を「アジア」に置き換えて述べることとするが、厳密には両者には違いがある。伊東の言う「東洋」とは、中国を中心として、インド、中近東世界までをもふくめた領域をさし、逆に東南アジアへの言及は少ない。また現在一般に言われている「アジア」のイメージには、逆に東南アジア一般がより反映されている。しかしこれらはイデオロギー的には「非西欧」という共通点を持っているため、本稿の性格において同義とした。
この点に関してよくまとめている研究として、青井哲人「東洋建築への最初期の言及に関する考察」-法隆寺建築論-まで」1994年日本建築学会大会梗概9060番が挙げられる。
井上章一『法隆寺への精神史』弘文堂、平成六年、p.139-149参照。この部分は伊東による法隆寺建築の源流発見のための中国探索の意義を、わかりやすくまとめている。
大型図書館で検索すれば分かるように、建築を含む東南アジア各地を主題とした各分野の書籍、報告等は、昭和期の特に「大東亜戦争」周辺にめだって多い。たとえばカール・デーエリングによるタイ建築を紹介した名著Die bildende Kunst. Folkwang-Verlag. Hagen i.w. Gotha. 1923は、『タイの造形文化』として昭和十九年に紹介されている。
以前、この陥穽の特質を国学的な「自然」概念との連関で述べたことがある(拙著『国学・明治・建築家』一季出版、1993年)。しかし伊東の「進化論」は、今回の論考の観点からまた別種の可能性を持ちはじめると思われる。
伊東のフィールドノート中、当時の清朝からビルマへといたる部分は、『伊東忠太見聞野帖』伊東忠太『清國』刊行会編(解説;村松伸、伊東祐信)、柏書房、1990年として刊行されている。また現在これらのフィールドノートは、伊東知恵子氏が保管しているものである。
詳しくは拙稿「カイロの宝さがし-伊東忠太のフィールドノートをめぐって」(雑誌『すまいろん』1994年春号)を参照のこと。
祐信氏によれば、同書は刊行された分以外にも継続されるはずであったらしい。戦争中に出版元で資料が散逸したといわれている。(すべて妻知恵子氏からの伝聞き)
たとえば東京大学の建築史系研究室を中心にした伊東忠太研究会の作業が挙げられる。これに所属した村松伸、稲葉信子、藤原恵洋諸氏は、当時伊東祐信氏所有であったフィールドノートをはじめて用いた第一世代の研究者たちである。
伊東忠太自身による熱河承徳遺跡群への言及は『熱河遺跡の建築史的価値』啓明会第69回講演、昭和11年(伊東忠太建築文献6、昭和57年原書房より復刻に所収)にあらわれている。本来であれば本論でしょうかいすべき質と内容を持つものだが、詳細にわたるため割愛した。ここで伊東は、承徳の遺跡群の建築史的価値とその保存を強く訴えている。その論においては、承徳を実見して彼の中国建築に対する史観を若干変更したと述べている。このような伊東の理論と実際との関係は、本論のモチーフの象徴ともいえるもので、後期の伊東にとって中国建築のサーベイ、とりわけ熱河が大きな意義を持っていたことが理解できる。
この草稿は、彼の死後、妻知恵子氏によって『熱河古墳 避暑山荘と外八廟調査と保存』1994年と題されて、自費出版された。本稿での満州における祐信氏らに関する記述はその多くをこれに拠っている。
なお日本における東洋建築学の展開を概説したものとして『日本建築学発達史』丸善、昭和47年の第3章、8章がある。それによると昭和期における中国建築研究は、伊東忠太の同僚にあたる関野貞博士、大正末年(1925)に満州にわたった村田治郎、藤島亥二郎、昭和四年(1929)に開設された東方文化研究所における伊東らの研究所手であった飯田須賀■(「期」の左側と「新」の右側)、竹島卓一らを中心として進められた。これらの研究はより実証的な研究に前進して、戦後の研究の足がかりになったとまとめられている。特に竹島の営造方式に関連する一貫した研究は、日本における中国建築研究の金字塔とされている。
『熱河古跡と西蔵芸術』昭和17年、昭和57年第一書房より復刻。
現存する報告書(私家版)は、高橋氏が後年仮名遣いや書式を現代的に改訂した版だが、文面、使用した資料等はそのままということである。
「土に刻む」中岡哲郎、雑誌『展望』1975年に所収。
しかし、最近の中国の経済政策の激烈さを見ると、彼らは交換価値という新しい大地において以前と同じような、直接的な関係性を見いだそうとしているかのような印象を受ける。
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