戦後建築史学の射程と
現代建築史研究会研究の早急なる必要性

文責:中谷礼仁・清水重敦・青井哲人(戦後建築史研究会)

*この文章は建築史学会発行の『建築史学』誌上において連載中の、伊藤毅先生主幹の「戦後建築史家の軌跡」にかかわる編集委員会における、内部若手による主張文です。全然他意はなく、最近の建築史学について考えてきたことが明確になっているので掲載することにしました。青井様、清水様にはこの場を借りてお礼申し上げます。

●はじめに
歴史的意識は過去と現在との振幅によって生み出される。そうだとしたら、双方を自身の問題として経験した、戦後第一世代の建築史家たちの足跡にこそ、その核心が刻まれているはずである。戦後建築史学の可能性の中心は、「現在と歴史学との関わり」をおいて他にない。建築史学という行為を発生させたそもそもの根拠に直接触れようとしたこと、これは普遍的な態度としてなお、私たちの前にある。
彼らの射程を批判的に明らかにし、私たち以降に、生かして連続させること。これが戦後建築史研究会のはっきりとした目的である。本稿では、戦後建築史学の日本における建築史学での位置づけ、その性格について、私たちなりにまとめ、その現在的な有効性、研究の必要性を、確認しておこうとするものである。

●日本における建築史学の端緒とその特質
私たちは日本建築史学と呼びうるものの発生を、18世紀中旬の国学の成立以降に見ている。たとえば、1750年代の日本の宝暦期は、様々な近代的改革が進んだと同時に、「日本」という国民国家像が次第に確固とした像をもたげはじめた時期であった。「日本」の国風文化を研究称揚する、いわゆる国学の大成者である本居宣長(もとおりのりなが)の処女作『排蘆小船』(あしわけおぶね)も、同時期の出版である(1756/宝暦6)。
以前より、日本建築史書の前史として引き合いに出される著作に、尊王復古を主張したために蟄居中であった公卿・裏松光世による大内裏の復原考証を含む『大内裏図考証』(1758−1788/宝暦8−天明8ごろ)や、本居大平に師事した国学者・沢田名垂による家屋一般に関する広範な辞典『家屋雑考』(1842)がある。つまり両者ともが、建築従事者ではなく国学者によって著されたことは注目に値する。建築史学は、当時の建築生産とは直接的に関係のないジャンルの中で発生したのである。これは日本建築史学の第一の特徴である。それは建築専従者とは必然的な関係を持たない「日本」という別種のまとまりがなければ、そもそも発生しえない学であったからである。もし本当に資料の選択からして客観的な研究がありうるのだとしたら、それらが日本建築の組織化に向かういわれはほとんどなくなってしまうではないか。
日本建築史学を分解すると、日本・建築・歴史という三つの要素で成り立っている。その権力構造は、まさにこの順序(日本→建築→歴史)で成立してきた。ここでの歴史は前二者を時空的に整合的に語ろうとする、帰納的な解説にすぎない。国家は地域的共同性の幻想を基点にして、そのアリバイに建築と歴史を要請した。 しかし周知の通り、その正体は18 世紀に成立した国民国家という比較的新しい概念形態であった。それは資本主義システムとの矛盾的関係において近代世界を成立させてきた主要な枠組みであった 。
しかしこの忌まわしい関係をもって、私たちは日本建築史全体を捨てたりはしない。
逆のプロセス(歴史→建築→国家)をたどるのだ。歴史は、私たちが現在を成立させうる基本的な認識能力に深くかかわっている。それは人間の社会的活動の必要条件ともなるものだ。そして建築は国家よりも、古く、そして根底的である。むしろ建築から国家が事後的に見いだされてきたのだ。このような関係性においてこそ建築史学は、切実な学として成立しうる。
そしてこのような逆のプロセスをたどったケーススタディが、私たちの考える戦後建築史なのである。その特徴を明らかにするために、以後、伊東忠太に代表される明治建築史学。建築史研究会に代表される昭和建築史学。そして現代建築史研究会に代表される戦後建築史学について検討してみよう。

●明治建築史の19世紀的宿命
明治建築史学は、近世における前史といかなる差異をもち、またいかなる同質性を持つのであろうか。
明治建築史学が発生したとき、すでに「世界」が、すでに西洋人らによる世界建築史が存在していた。
近代日本の建築学が、明治政府の対欧政策の一環として移植されたものであり、西欧的体系のうつしに端を発しているのならば、帝国大学という当時のアカデミーによって開始、構築された日本における建築史もまた、その体系の一部として出発した学問であった。
このような経緯は、前史である国学者らの建築史に対して以下のような違いを持った。
端的にそれは、日本建築が把握される際における西洋建築史学の方法論の先行性、優位性である(国学においてはすでにこの優位性は、漢意批判に代表される理論武装によって崩されていた)。つまり日本の建築に内在する価値を発見しようとしながらも、その評価方法自体はヨーロッパで開発された文法、方法によって付与されるという特質が、伊東忠太の初期研究によって象徴される、明治20年代にはじまる日本建築史の初期的構造である。
次は共通と思われる点である。
それはまず、明治以降の建築史学の遂行者たちの職能的立場である。皇国日本のもとで新しい建築学を遂行する彼らにおいて、当然のように従来までの大工棟梁家の出身者はほとんど皆無であった。そして彼らにとっての日本建築史の構築には、伊東におけるような西洋的方法論の直写は将来的には克服すべきものであった。大正後期から昭和期以降の世代における日本建築史の展開には、この西洋的方法論からの脱却が強く意識された。このような状況において、日本建築史学における「実証主義」的方法が生まれたのである。

●昭和建築史の不可視の主人
昭和建築史とはすなわち実証主義の時代である。古文献の解読、国家的取り組みによる現存遺構の調査、修復技術の蓄積など、これらの流れはまず、昭和初期の足立康、福山敏男、太田博太郎らによる「建築史研究会」の作業などへ結実した。
彼らがとった西洋的方法論への対抗策は、「日本建築」独自の評価文法を実証的に獲得することであった。このような意味において日本建築史における実証主義は、単なる実証というよりも、むしろ相応の時代精神を伴っていたといえるだろう。これは国学もまた精緻な研究を構築し、かつナショナリスティックであったことと同義ではないだろうか。この指摘は、通常の実証主義における客観的科学的態度とは対立する見方である。しかしながら、実際はそうではない。この実証主義は、日本という疑いえない時空間が存在するという前提的認識の後に生まれてきた、つまりその特定の主観的時空間を前提としたうえでの、合理的なコンテクストの読解装置にほかならないからである。
「要するに吾々の念願するところは、最も正確なる材料によって、真に体系ある日本建築史を再組織せんとするにある。これがためには、徒にその組織を急ぐよりは、先づ退いて各事項に関する基本的調査や基礎的研究に専念しなければならない。」足立康、大岡実「建築史研究の態度に就いて」『建築史』2巻4号、昭和15年7月
これはよく引用されるところの、昭和初期実証主義研究の態度を明確に著した言葉である。もちろん現在においても、歴史を考究する際の基本的調査や基礎的研究が重要であることは明らかである。しかし見落とすべきでないのは、これら基礎的研究と日本建築の再組織とは実はそれほどの必然的関係がないということである。繰り返すが、もし本当に資料の選択からして客観的な基礎的研究がありうるのだとしたら、それらが日本建築の組織化に向かういわれはほとんどなくなってしまうのである。むしろ表立った組織化を図らない基礎的作業こそが、「日本」という枠組みの強固な基盤を作り出している。
浅野清らによる遺構復原作業の発展、あるいは遺構の乏しかった住宅建築の領域も、それまでに培われた文献駆使の技術的向上によって、その変遷を徐々に明らかにされた。これによって寺社に代表される宗教建築に傾きがちであった建築史研究は各種の個別的事例へと拡大し、より広い視野の中で、時代様式を把握されるようになった。すでに第二次世界大戦前において相当の厳密さを加えられてきた。しかし自律的な評価文法の確立を目標とすることは、同時に〈現在〉から退却することをよしとする反動を不可避的にはらむものである 。現在にいかに建築史がコミットするか、これが日本近代における建築史学のさらなる課題として浮かび上がりつつあったように思われる。

●戦後建築史の成立根拠としての現代建築史研究会
戦後とは、これまでの建築史を統括していた「日本」という主人公の、一瞬の不在である。そして機能主義の台頭によって、建築史無用論が唱えられるにいたった。これまでのプロセス(日本→建築→歴史)は明らかに無効となった。逆のプロセス(歴史→建築→日本)だけが有効であり、しかしその確立はおそらく困難であった。日本近代建築史の批判的発展群とは、そのような地平において展開するものであった。またそれらは、「建築史」につきものの国家的庇護とはほとんど無縁な場所から発生してきたことも、特筆してよい。
その一つは東京大学在学中の研究者が中心となった「現代建築史研究会」(1954-6)周辺の成果である。
近代(現在)を語りうることが建築史成立の条件であることを尖鋭的に意識していたのが、稲垣栄三や村松貞次郎、大川直躬などで構成された研究会、あるいは同年代の伊藤ていじや渡辺保忠であった。彼らが様々な専攻の経歴をすでに経ていたことは重要であろう。つまり彼らは単に近代建築を研究したのではなく、「建築史学」の近代(現在)における有効性自体を問うたのである。
会消滅後の彼らから、建築史学の骨格を再構築するための視点がいくつも提出された。稲垣の『日本の近代建築』はもとより、建築生産構造の展開を明らかにし、それとの連関として建築様式の動因を把握しようとする、同世代の渡辺保忠らによる建築生産史、伊藤ていじ、大河直躬ら多数の研究者の復原的調査と編年分析を主眼とした形式研究による民家・庶民住宅研究の急速な進展など。現在の日本建築史学は、これら先達の獲得した評価文法に基づき、さらなる補完と再検証、ならびに保存技術の整備を行ないつつ現在に至っているといえよう。
しかしながら、私たちは現代建築史研究会で、何が話され、何が行われ、何が残ったのか、具体的に何も知らされていない。まずはこの会の詳細を明らかにすることが必要だと思われる。


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