都市は連鎖する
*本論は雑誌『10+1 No30 特集都市プロジェクト』(INAX出版)に紹介された論をもとにしています。
中谷礼仁
4年前に来阪した。34年間東京で生まれ育った身としては、はじめての長い移行期間であった。
着いたら、何か普遍的なことをしようと漠然と考えていた。どこでも考えられるような問題の設定の仕方というのがあり、と同時にある場所においてこそ見出すべき問題があった。しかしながらそれらは別々ではなくて、どこかで密接につながっているはずなのだ。ある固有の土地でこその、かつ普遍的な問題を探す。それはいかにして可能なのだろうか。その始まりは、単身赴任寮での出来事からであった。ある日の夕刻、買い物に出かけた。道路がそのまま進まずに大きく湾曲していた。そのために目的の店にたどり着くには迂回を余儀なくされた。なぜだろうと、その時ふと思った。すると目の前、その道の本当はまっすぐ行き着くはずの先に、夕日をさえぎる何ものかがあった。古墳であった。
空から見る古墳と、脇を通る視点からとの印象の違いは大きい。それは樹木やツタが繁茂し、光は吸いこまれ、丘陵というにはいかにも不自然な名状しがたいシルエットなのであった。その存在が計画道路を不自然に曲げていた。古墳は過去にあったのではなく、今、そこにいた。そんな単純なことに気がつかなかったのは、それが自明なことだと思い込んでいたからである。それを「知っていると思っている」ことと、それが「いることを理解する」こととは、全く違う。昼間の勤務先では、ひとつの作業が完成されようとしていた。近世大阪の中心地に残存していた二三軒の長屋群全体の解体実測調査であった。再開発によって破壊されることが決定されていたが、その住人達がせめて記録でも残そうとしたのを請け負ったのである。その群は、まるでノアの方舟のような一体的なバラックになっていた(図1)。木造の伝統的長屋形式が基本なのだが、途中で折れ曲がったトンネルのような、およそ通常では考えられない平面の家があった。皆でバールを持って、その秘密をこじあけるように家たちを壊した。新建材の壁をはぐと、別の壁面がでてくる。さらに除去すると、昔ながらの土壁が現れる。いく層にもわたる増改築のプロセスが全て残っているのであった。よく調べてみると、近代を経る中でその敷地は道路拡張のために何回にもわたってけずり取られていた。そのたびにこれらの家もまたけずられ、後退し、あるものは成立しなくなった。すると家々がアメーバとなって連結しはじめたのである。先の折れ曲がったトンネルはそのようにして表と裏の住まいがくっついた結果だったのだった。昔も今も都市住宅は都市の敷地との緊密な弁証法によって建てられる。その都市のかたちが変われば、それに応じて家も動く。家という備忘録があり、それが都市の変容を逐一記録していた(図2)。
(図1左) (図2右 旧菅原町長屋群俯瞰図、図は 旧M邸) そんな矢先に、建築家の趙海光氏から、大阪の長屋の改修案件を紹介された。迷うことなく建築実測の分析手法を取り入れた。実測は、既存の建物を相手にした地道な作業である。しかしこの経験によって得た知見ははかり知れない。自分の思い込みより、実際の事物は遥かに多くの課題を問いかけるから。さて寸法をとり、分析をしていくと、デタラメな数値が、一瞬にして体系的な計画寸法の束に変ぼうすることがある。この時、日常のふるぼけた住まいが、まるでホワイトキューブのように抽象化される。そして現在性を伴ったデザイン要素として操作可能となる。過去は使える。それが都市との連関においてつめられた寸法であれば、それはなおさら拝聴すべき師のようなものである。
実は過去こそが現在であった。日々流動する都市はまさに現在性の象徴であるから、そのドラマに過去は介在していないかのように思える。しかしながら冷静に考えてみると、その現在のイメージは、それ以前の事物の構成から生み出されてきたものである。現在には始めから分かちがたく過去が入っている。それは「過去」という分類を必要とせずに現前する(私が気づく前の古墳のように)。
そのとき、二三件の解体実測現場をはじめとして、私の立ってきたいくつもの場所の定義が変化した。それらが、潜在する層としての各時代が相互に干渉し、変容し、転用されていった結果であったという実感が湧いてきたのである。都市−住まいは「現在」「過去」という分類記号をはく奪され、現前するオブジェとして立ち現れてきた。都市は形容しがたい可能的な事物の集積になった。都市は連鎖する。その過程が人間の時間的スケールを遥かにこえてしまっているから、忘れられているだけなのだ。
ある時、卒業論文を専攻している学生に、現在都市における条里制の影響を調べてみてはどうかと促した。半年後、彼は一枚の住宅地図を持ってきた。その住宅地は、1000年も前に条里制によって計画された田畑の一つ一つの区画がそのまま用いられた、スプロール条里制住宅街であった(事例集No.1参照)。抜本的研究の必要性を感じたので、研究会を組織した。そして、私と同世代の、同じような移住者である清水重敦(奈良文化財研究所)に協力を乞うた。
大阪と呼ばれている一帯が、ある普遍的な存在として考えられうるのは、その内容にあるのではない。それはこの土地が、この2000年に渡って、さまざまな都市構造をいくつもの層としてたい積させてきたからである。近世からの東京、中世からの京都に比べて、それは格段に長い時間スケールを伴っている。そしてもう一つ重要なことは、私たちがその時間的堆積の存在を、常日頃は忘却していることなのである。意識的に継承された伝統は、もはや私たちの興味の範疇外である。むしろ無意識のうちに手渡される構造、あるいはその堆積の複雑さゆえに歴史的アイデンティティーの獲得に常に失敗していくような場所(大阪!)のほうが面白いのである。なぜなら意識的伝統は継承者による権威的価値づけを必要とするが、無意識な継続はそのような過程を全く必要としないからである。あの夕刻の古墳のように、不断に現在に影響を与える物質的存在として、そこに−いる−からなのである。
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