お台場公園の攻防
中谷礼仁(建築史家・日曜釣人)
私の父はもっぱら東京湾岸を漁場とする釣人である。対象もハゼ、キス、カレイといった江戸前、ふらっとたち寄ってそこそこの収穫があればメッケもの、そんな気易い釣人である。
私自身も子供の頃からの彼の釣りパートナーである。20年前は飯田橋近くの大曲が漁場で、二尺ほどの鯉を釣ったこともあった。しかしそれ以降次第に私たちは隅田川、東京湾へと南下を始めた。これには二つの理由があった。一つは段々と水がきれいになって湾でも魚が復活したこと。もう一つは逆に都市再開発によってやむなく釣場を変転せざるをえなかったことである。釣りと再開発には実は共通する点がある。つまりどちらも都市の空間〈あきま〉を捜し続ける宿命を背負っている。再開発はそのあきまに新しい意味〈くうかん〉を付与しようとする。しかし釣人は〈あきま〉それ自体が重要である。人間が造りだすくうかんに魚の棲む余地は少ないからである。葛西、若洲、月島と漁場を移動するごとに、数年後には決まって立入禁止の札が打ち込まれた。つまり個人的な経験では東京の釣人はこの20年ばかりずっと、都市再開発と隠れた拮抗関係にあったのだ。幻の都市博、開発途上の臨海副都心の入口にあたるお台場公園は、この10年ばかり、私たち親子の主な漁場であった。お台場は幕府が拵えた風光明媚な砲台跡地で、行政もおいそれとはつぶせない。それに周辺の埋立地は駐車代金を請求されることもない。このルーズさが多くの人々をお台場にひきつけてきた。ママ・チャリを転がしてくる人もいれば、ベンツのワゴンで乗り込んでくる家族もいる。釣り上げたハゼに喜ぶトサカ頭のパンク・グループもいた。釣りの目的が単に魚を捕獲することならば、おそらくその群れは狩猟者特有の機能的な集団になるだろう。しかしこのイメージはお台場に集う人々の千差万別さにはあたらない。この理由には、東京の釣りが明確な収穫を約束していないことが挙げられるかもしれない。小魚ばかりで近所に配るだけの器量もないのだ。この動機の薄弱さがむしろ東京の釣りの醍醐味である。成果の保証されない行為は、何かを生産しつづけなければならない日常においては許されざる贅沢なのだ。〈あきま〉が持つ無為の力によって彼らは集まってきた。だから私はこの場所をしみじみと愛おしく思っていた。
しかしこのお台場公園、2年ぐらい前から自転車、自動車等の陸路での入場が禁止されてしまった。理由は簡単、お台場周辺を前述の再開発街区としたためで、現在この公園にアクセスするには浜松町の桟橋から45分間隔で運行される海上バスか、レインボーブリッジの専用遊歩道を1時間も歩いてたどりつく方法しかない。お台場は今どうなっているだろう。撤退を余儀なくされた釣人は、海上バスに乗って久々にお台場を訪ねてみた。
お台場は再開発の現場にかろうじて残された〈あきま〉になっていた。しかし周囲は高層マンションや巨大社屋、新交通、あるいは現場小屋で囲い尽くされ、新しく意味を付与された〈くうかん〉で窒息寸前である。平日とはいえ、公園には私一人しかいない。釣人やボードセイラーたちは何処へ行ってしまったのだろう。海上バスの船員によると、それでも土日は彼らで賑わうという。しかしボードや釣り竿片手に海上バスで通勤する彼らの姿なんて想像しにくい。限られた交通手段で果たしてどのくらいルーズな休日をエンジョイできるのだろうか。
しかし実は秘密の経路があるらしいのである。現場事務所にゆくふりをしてチェックポイントを突破、自家用車で乗りつける釣人、セイラー達が結構いるらしいのだ。とある公園関係者のこの嘆きを聞いて私はやっと合点がいった。釣人と再開発との拮抗関係は実はまだ続いていたのである。少し心が晴れてきたら、限られた昼休みを現場の職方が一人、海に向かって釣り竿を打ち込んだのが見えた。
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