生きている墓碑銘
平内廷臣はいかにして日本建築を終わらせたか

中谷礼仁

この問いかけは、同時に、彼がいかにして日本建築を生き永らえさせたかという側面をもはらんでいる。というのも彼の行いが、近代以降の日本建築のありようにも複雑な影響を与えていると思われるからである。ひるがえってみれば、これは現在における建築の「終わらせ方」にさえ関係してくるのかもしれない。

●他者としての平内廷臣
平内廷臣(文政五−安政三・1799−1856)の人となりを知る術は少ない。四天王寺流正統を挙げる幕府作事方大棟梁、要は当時の建築生産組織の頂点に位置していた平内家の十代を襲名した人物として著名だが、彼の経歴は一筋縄ではいかない。廷臣は文政五(1822)年に平内家に養子として迎えられたが、その時点ですでに和算家として二つの著作を刊行していた。その翌年には大棟梁の地位を得ているが、関野克氏によると「初めは建築のことに通ぜず閣僚棟梁などに侮蔑され、発奮励精寝食を忘れ、ほとんど家産を薀尽して研鑽六年遂にその蘊奥を極めた」という。その後、廷臣は日光東照宮の修理を初めとして大棟梁の名に恥じない活躍をすることになる。彼の出生が依然不明であり、また当時の作事方大棟梁が官僚の一ポジションに過ぎなくなっていたとはいえ、一和算家が江戸期の建築生産組織を代表する作事方の大棟梁に二十代半ばにしてなりえた経緯は大変に興味深い。つまり彼の出自は、さながら日本建築を成立させている共同体自体にとっての他者なのである。以上のように特異な経歴を象徴するように、以後彼が刊行した二つの日本建築に関する著作は、当時流布していた建築技術書に比較して異質な動機をはらんでいた。それが筆者にとっては、幕末における日本建築の一つの「終わらせ方」のように見えるのだ。

●日本建築解剖学
廷臣が刊行したのは『匠家矩術要解』(天保四・1833)と『匠家矩術新書』(嘉永元・1848)という二つの規矩術書である。規矩術は、反り等の複雑な曲線を含んだ建築軒廻りにおける各部材形状を、曲尺(=さしがね)を用いて幾何的に分析、解明する方法である。和算の影響を受けながら大工技術の奥技として近世末期に完成したのである。そしてその立役者こそが彼なのであった。
まず彼は『矩術要解』によって、その方法論を幾何的解釈の下に一挙に一元化した。単純な軒しか扱っていないにもかかわらず、従来の類書のように具体的な部材を一々描き示すのではなく、幾何的関係にそれらを抽象する方法によって様々な軒形状に発展しうる普遍性を兼ねそなえたのである。15年後の『矩術新書』においては、その方法はさらに推し進められ、煩雑を極めた扇垂木の理論的再構築を数値変換や実験器具を駆使して試みている。
ここで大切なのは、『矩術要解』における携帯性、ならびに『矩術新書』特有の解剖学的アプローチである。前者は手のひらに納まるほどの縦長の和綴ポケットブックであり、廷臣の意図した単純な方法による軒構造の全体的把握をさらに強調するものとなっている。つまり現場の職人の懐にも容易に忍ばすことのできる小型本に日本建築のエッセンスが縦横に展開されているというわけである。
また後者は著名な『解体新書』(安永三・1774)あるいは『算法新書』(天保元・1830)のオマージュでもある。彼はこの書において扇垂木割を日本建築架構の最難関と定めて、いわば「解剖」しつくしたのである。ここからは建築をその渦中者として変革していこうとする運動を感じることはできない。またその構造を厳しいまでに明瞭に記述しようとする蔭には、自らの方法論を既存の建築的話法に委ねようとしない断絶的な意識さえ感じとることができよう。つまり廷臣における異質さとは、日本建築に内在する運動性を見ない、あるいはすでに停止してしまった以降の地平においてその方法が展開されたことなのである。
驚嘆すべき彼の図面のクールネスは、時には現在のデジタル・アーキテクチュアの表現における無機質を凌駕する。近世末期の日本建築は既にその内的体系が完成されつくされた状況にあったとされる。廷臣の試みは、その閉塞状態の中からそこに内在する形式的可能性を全く未知な領域に向けて「再変換」しようとした企てだったように思われる。これが廷臣による「終わらせ方」であった。

●ミネルバの梟としての規矩術書
だからそれは始まりでもあった。伝統技術の奥技であった規矩術は、奇妙なことに明治以降の近代的文脈においてこそむしろ興隆しはじめるのである。明治期の建築書の中で規矩術書の占める割合は意外なほど多い。中央のみならず地方の一工匠までが西洋建築にも対応しうる新しい規矩術を展開していったのである。それは廷臣の冷静なメスによって切り開かれた地平だったといえよう。そして大正期に廷臣の二著は再版されるに至るのである。

「すべてをつつみこむ容器であるよりは、より高性能な探索器でありたい、と彼らは考えた。
…その高性能探索器をつかって、白色ノイズの領域の中にダイビングしていくのだ。
…母船を失った無数の探索器の群れが宇宙の中をいく。世紀末の探求…」
『地上に一つの場所を』中沢新一、1988年

図)出隅反垂木及び反り茅負の反りを桷へ寫す圖解(『匠家矩術新書』より)

参考文献)
関野克『文化財と建築史』鹿島出版会、昭和44年
狩野勝重「規矩と規矩術」『江戸科学古典叢書16』に所収、恒和出版、昭和53年
内藤昌ほか『愚子見記の研究』井上書院、昭和63年
小田切浩「平内廷臣の規矩術」東京工業大学卒業論文、1983年
滝川淳「解読『匠家矩術新書』」早稲田大学修士論文、1994年


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