現場で見たこと、学んだこと
中谷礼仁(建築史家)
● 半年で経験なんて、と思うけれども
僕は現在の研究の途に着く前に、まる三年、とある大手総合請負建設業、いわゆるゼネコンの設計部に勤務していた。いや、前というよりは、ゼネコン、あるいはそこで少しだけ体験させてもらった現場が、僕を建築史研究の道に引きずりこんだ源泉の一つなのである。そこから色々なことを考えはじめたわけである。
そのゼネコンには新入社員に対して半年の現場研修が義務づけられていた。これが僕にとっては会社を選定するにあたっての大きな魅力になっていた。もちろん、設計の作業にまず興味があった。だが建築を成立させている生産の場を包括的に理解するには、設計のみならず、現場にも直接的に入ってみることが必要に思えた。半年で経験なんて甘い考えだとは思うが、その想いには抗しがたい魅力があったのである。
それでは僕が現場から一体どのようなことを学んだのだろう。●囲みでしきられた空間
まず現場には囲いが付き物である。その機能上の名目は色々あろうが、僕にとってそれは、現実世界と現場とをいったん仕切る結界のように思われた。
その結界の存在は、世界が一様の時間軸で流れてはいないことを教えてくれた。例えばコンクリートによって作られた建築は、はるかローマ帝国の時代から存在する。僕が配属された現場は鉄筋コンクリート造の新築マンションであった。現在の鉄筋コンクリート造も、その作り方の性格は古代とほとんど変わらないであろうと、その現場の中で初めて実感したのである。
コンクリートをうまく打設するためには現場が一丸となって対処する必要がある。現場打ち当日は独特のはりつめた空気から始まる。 監督から発せられたつるの一声によって、ポンプ工がミキサーからくり出されるセメン卜を、ぶちまける。その打設管は大蛇の腹のようにのたうっていて、うっかりしていると足をとられてしまう。待ち構えていた土工たちがいっせいにヴァイブレーターを型枠に突っ込む。型枠の中に落ちていたジュース缶を、大慌てで救出する。セメントはどくどくと流れ込む。その階下では、ラチェットを腰にさした職人達が、セメントの重さできしむ支保工の鎖を締め直す。僕はといえばその横で、型枠と型枠との隙間から、時折吹き出そうとする生温かいセメン卜を食い止めるために、リネンを持ちつつ格闘中である。発熱したセメントの海の下で、僕は丁度Uボー卜のボイラー室に閉じ込められたような心境である。それらはいわば劇、それも古代劇、あるいは黒沢映画のような一体的空間である。この高度に統卒された劇を成立させうるのは、現実とは異なった時間、空間のみである。建築物が竣工し、建物は現場の手を離れる。すると途端に現実の空気が入り込んでくる。すでにあの結界の中の劇を見ることはできない。つまり現実の建築の姿は、その建築の全体的な過程のほんの氷山の一角なのである。設計もそうだけれども、歴史はこのような過程の全体を魅力的に描き出すことが必要とされているのだと思う。●様々な顔、身体との出会い
人間、似たような環境にいると概して顔や体形も似てくるものだ。常日頃、あいつとおれとは違うと思っていても、同じような組織間での差は本当に微細なものである。僕のまわりはだいたいやさ男タイプで占められている。これが特異な事態であることに気づかせてくれたのも現場である。
僕は現場で、近世の職人絵尽くしにでてくるような無駄のない身体を本当に見た。上下を逆にしても成り立つだまし絵のような滑稽な顔も見た。日本人の顔や体つき自体が画一的なのでは実はない。それはむしろ特定の社会的教育によって成立するのである。とりわけ印象に残っているのは、コンクリートの金コテおさえを専門とする沖縄出身の職人のことである。
「コンクリート金コテおさえ」、設計者はベーシックな床仕様をそのように記入する。後でモルタル補修をする手間を省くために、コンクリート打設直後にコテおさえをしてしまう技術である。設計図面上は実に普通の仕様なのであるが、実はかなり特化された技術である。現場の上司から聞いた話のみでウラをとってはいないけれど、この技術は沖縄の在留米軍基地に関わる建設作業を通して日本に伝わったらしい。沖縄の出身者が多いのもそのせいであろう。
コンクリートが打設しおわった晩に彼の作業が始まった。車の中で一日中待機していたその職人は、すでに準備を整えた。その姿は形容しがたいものである。足下にひろがるうちわのような靴は、セメント上の体重の分散を図るためのものである。そして大型の金コテが両手に装備されている。彼は注意ぶかくほやほやのセメントの上に着地すると、ゆっくりと体を前に傾けた。両手両足を着地させた瞬間、シューッという音とともに、彼は勢いよくセメントの海を泳いでいった。月光に照らされる中、彼はそのアメンボのような無駄のない動きでもって、見ほれる僕の眼前から遠く離れていったのである。現場研修が終わり、その後も、僕は設計部社員の若手として色々な現場の人たちと作業をする機会を持てた。しかしながら研修の時のような、現場との直接的なつながりを感じることはすでにできなくなっていた。
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