今回、鈴木了二氏の物質試行47金刀比羅宮プロジェクトを訪れて、中庭の異様さを
一番感じた。この中庭は、一見すると単なるはげ山で、木が二本ポツンと存在している
だけで、庭として成立していない。初めてこの場所を訪れた時、この庭の周囲に建物が
配置されているように感じた。すなわち庭が先行して存在し、その後、建物が成立した
ように。しかし、スタディ模型や図面を見る限り、この空間は周囲の建物を計画した後
になって成立したものであった。初めて訪れた時の錯覚や異様さ、これらは、様々な矛
盾が露呈したものではないだろうか。
一般的に、線は点の集合として、面は線の集合として存在している。すなわち点→線
→面といった図式が浮かび上がる。通常の建築の発想においては、平面上の点と線から
出発し、図面化され、空間化される。しかし、この建築を見る限り、上のような通常の
図式を感じることはできない。垂直に延びる壁がある方向から見れば線となり、またあ
る方向から見れば面として存在する。また、数多くの図面を見てもパースペクティブに
よる数多くのスタディがなされている。これは、立体から平面へ、三次元から二次元へ
という思考の過程をたどっているといえる。つまり、時間という軸において通常とは異
なる何かが起っているのではないかと考えられる。
また、この異様さは空間という概念においても言えることではないだろうか。例えば、
あるべきはずの柱が途中で切れている。また多くの箇所で見られた、スリットによりあ
るべきはずの梁がないといったものである。これらの例は、私にある種の不安感を抱か
せた。うまく言い表すことは出来ないが、確かに存在する不気味さ。
この異様さ、不気味さは何なのであろうか。それは、この建築における通常の時間、
及び空間といった概念の喪失であると考える。鈴木氏はこれらを意識的に行うことによ
り、建築の可能性として、建築は時間、空間という概念を超越することのできる存在で
あると言いたかったのではないだろうか。