「だから、複数集まったそれらの集合が必ず一方向を指すとは限らないし、それどこ
ろかおのおのはバラバラで時には矛盾しさえすることのほうが自然であろう。「秩序」
の全集合は、本来「非秩序」的なもののはずだ。ところが、どういう経緯でそうなる
のか、「集合」をひとつに一体化しようとする得体の知れない「粘着性」がその辺り
に紛らわしく出没し、いつの間にか「権力」が「秩序」を僭称するに至る。」
鈴木了二 「終わった後に始まること」 『建築零年』p55 2001年
金比羅さんの長い長い階段も遂に終点が見えたとき、「物質試行47」は姿を現した。
僕の後ろでこれを見た老夫婦が「まだ未完成だね。」と話をしている。石の擁壁、錆
びた鉄壁といった素材感が、そういった印象を抱かせるのかも知れないが、確かにな
にか微妙なバランスの上に成立している建築だという印象をもった。斎館棟を目の前
にしたときその印象はより強くなった。しかし同時に、僕が今までに見てきたどの建
築にもまして、そこにある「完成」を感じずにはいられなかった。それは一体何によ
るのだろう。
斎館棟を巡り歩いていると、何か密度のようなものを感じた。空間のひとつひとつの
部分がそれだけで完成しているかのような印象である。そんな密度に怖くなって思わ
ず足を止めてしまいたくなるくらいであった。似たような体験はC.スカルパのヴェッ
キオ美術館でもあった。しかし決定的に違うのは、ヴェッキオ美術館では、そうした
部分がいまだ固まっていない状態、いまだ全体としての完成状態に至っていないと感
じたのに対し、ここでは、さまざまな粒子の密度がある全体をかたちづくっていると
感じたことにある。
そしてさらに、そんな密度を全く感じない、ぶっきらぼうな空間がここにはあった。
それは、中庭にかかる階段の裏の空間である。その空間は「階段裏」以外のどんな空
間でもなかった。そこにあるのはぺらぺらの階段を支える錆びた鉄壁であり、それら
は階段裏らしく見栄えの悪い溶接でとめられていた。そしてそこには階段に刻まれた
スリットから光が落ちているのだが、階段の上にいる時にそのスリットからその下の
空間を意識し期待していた分、その光はかえって空虚な印象をその空間に帯びさせて
いた。
この階段が、斎館棟をある全体としての完成に至らせているのだろう。基壇・地下空
間・地上空間の3つを視覚的にも経験的にも繋げ、全体性を獲得しているのであろう。
そしてそれ故に、これによってできた空間はこの建築において一番空虚で、まさしく
「あきま」という場所であるしかないのであろう。
そんなこのぺらぺらの階段の二重性が、一瞬にしてすべての関係が崩れてしましそう
で、しかし高度に完成した建築を可能にしているのだろう。